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ベストセラーの世界史

本会会員で、ヴェルヌの翻訳も手がけていただいている三枝大修さんの共訳書『ベストセラーの世界史』が太田出版より刊行されました。生前のヴェルヌに関する限り、「ベストセラー」と呼ぶに値するほど売れた本は『八十日間世界一周』くらいなので(同時代に遥かに売れている本はかなりあります)、本来こうした本に取り上げられる必然性は薄いにもかかわらず(死後および全世界での売れ行き、という話になれば別なのですが)、ヴェルヌに数ページが割かれています。フランスを中心としているので、「売れている」という印象があるヴェルヌを避けて通れなかったのでしょう。それ以外の小ネタ的な話も満載で興味深い読み物になっています。

会誌7号品評会  ある会員の活動32

前回あんなこと言ってましたが、コンフェデレーションカップ、あっという間に終わっちゃいましたね。
気がつけば、なでしこジャパンの強化試合もいまいちの結果で終わり、男女ともサッカーは戦略の練り直し、次世代選手の育成が急務といったところでしょうか。

それでも卓球で福原愛選手がジャパンオープン優勝、テニスはクルム伊達選手がウィンブルドンで健闘、と気持ちのいい話題もあります。何にせよ、結果を出す選手は地道な努力を積み重ねているわけで、見習わないといけないですね。

などといいながら、空模様も悪く引きこもりがちであったのを、6月23日(日)に日吉まで品評会に行って参りました。

時間少し前に行くと、見慣れない方もいらして、おやと思ったのですが、一風変わったゲストの方でした。

でも、書いていいのか確認してませんので詳細は省略。(有名人とか業界人とか、そういう話ではありません)

参加はゲスト含め7名。冒頭、石橋会長から最近のニュース、それと今後の編集方針について意見交換。

会誌8号の特集は本邦初訳が刊行予定の『蒸気で動く家』ですが、編集の方の都合を考えて読書会を早めたいのに、刊行時期がまだはっきりしていない。その辺をどうするか、協議しました。
(詳細はいずれ会長から流しがあるでしょう)

また、これも都合上、会誌9号の特集についても早くも協議。もしかすると、読書会を半年繰り上げるかも、という計画。これも詳細はいずれ。

その他、翻訳の計画がいくつか。相変わらず出版状況が厳しい中で、計画だけでもいくつか出ているのはすごいこと。もし実現すれば、ヴェルヌ翻訳ブームが起きるか? まあ、そこまでは期待しない方がいいか・・・

品評会は投稿記事それぞれに意見を言い合うので、投稿者としてはやや緊張する。私の投稿は、自分でも思っていたけれど、やはりちょっと込み入りすぎていたようで、今後の課題。

このブログにも書きましたが、書きたいことが結論の出ていないことなので、当然まとまりに欠けるのです。うーむ。

倉方健作+成田麗奈両氏の『「ジュール・ヴェルヌ未発表歌曲集」日本版ライナー』は、ヴェルヌの詩が訳されており、掲載されるだけで価値のある業績。もしCDが買えるなら、倍楽しめます。復刊した『永遠のアダム』収録の短編など、エッツェル以前のヴェルヌ作品が日本語で読める機会も少しずつ増えてきて、喜ばしいかぎり。

ウィリアム・ブッチャーの講演録は、内容は石橋会長が大いに異論ありですが(会誌5号なども参照されたし)、掲載されたヴェルヌの草稿はやはり印象強く、現物に接するとやはり感動する、と言った会長の話も興味深いものでした。

さて、ソランジュと六助の『変人の遺言』解説のあとは、待望(?)の「ヴェルヌ双六」。A2版の紙に印刷された、新島さん手作りの(あ、六助だっけ)双六はそれぞれの升目に〈驚異の旅〉の作品が刊行順に当てはめられ、駒は作品の主要キャラクターの挿絵を切り抜いて使用。石橋さんはミシェル・ストロゴフ、新島さんがバービケイン、といった感じ。私は臆面もなくネモをとりました。

双六と言っても、『変人の遺言』で使用された、フランスの伝統的な双六「鵞鳥のゲーム」のこと。特定の升目に行くと、2回休みとか、今進めたサイコロ数分だけ余計に進む(つまり、振った数の倍進める)などのルールがあって、ゲームの進行を変化させます。

最悪なのは、他の駒が来るまで動けないという升目がふたつ(「井戸」と「刑務所」。この象徴性はよくわからない)、それからそこに止まると振り出しに戻る升目がひとつ(「髑髏(どくろ)」)あって、実際にやってみると案外そこに止まる。

また、ぴったりの数でなければゴールできず、余分な数分はその数だけゴールから逆戻りしなければいけないため、なかなか決着がつかない。

最初は、有名な作品(『海底二万里』とか)に止まると「おお」などと声があがったのですが、ゴールに近づくと無名な作品(失礼)ばかりになって皆ゲームの進行に集中。それでも、知らない作品は石橋さんがどこを舞台にしたどういう話か教えてくれるという豪華特典付。

最後は私とゲストさんが「井戸」(『北対南』)と「刑務所」(『キップ兄弟』)に足止めされたまま、石橋さんがぴったりの数を出せずに延々とひとりサイコロを振り続けるという構図になり、ようやく石橋さんがあがったところで終了。つまり、終盤で「井戸」と「刑務所」にはまると、誰も来ないのでそのまま置き去りで終わってしまうのでした。

人数を変えたり、少しルールをアレンジするともっと面白くなるかも知れない。しかし、なかなか楽しめました。

会終了後、有志で飲みに行き、くだをまいて終わったのでした。さあ、私も「マルティン・パス」読み直さなくては・・

ところで、「あまちゃん」東京編で盛り上がっている皆さん(そんな人ばっかりじゃないか)、今ディスカバリーチャンネルで毎週土曜日放送している「SF界の巨匠たち」、来週7月6日はヴェルヌだそうです。おそらく間違いも多いでしょうが、リドリー・スコット監修で、わりとちゃんとした番組のようですので、CS視聴可能な方、ケーブルTVで視聴可能な方は22時からですので要チェック、ではないかと。

「永遠のアダム」感想

(文遊社)「永遠のアダム」評

 翻訳者の江口清氏といえば、(旺文社文庫)「海底2万リュー」をつい思い出してしまいます。この頃は翻訳された時代が古かった。事実と後世の創作談がまじりあっていたせいか「アメリカから『海底二万里』刊行の以来…」をうながす話を事実だと思いこんでいました。
 (パシフィカ刊)「永遠のアダム・エーゲ海燃ゆ」の解説を転載しているせいか、事実と後世の創作の区別が分からないですね。

「永遠のアダム」
 ジュール・ヴェルヌ作品として読むと、彼の作風ではないのがはっきり分かりますね。書いたのはミシェル・ヴェルヌだそうですが、彼も作家になってもいいような独特の面白さがあります。
 なんだか、イタロ・カルビーノの作品をスケールアップしたような趣がなんともいえない。世界がすべて沈没するっていう展開で(筒井康隆)「日本以外全部沈没」を連想してしまいました。はたまたは映画「2012年」か。

 「永遠のアダム」を読んだ後で、イタロ・カルビーノの「見えない都市」を読むと、まるで続編に思えてくるような面白さがたまりません。自動車の描写が印象に残る。モーターの電源を入れた瞬間ガソリンがたちまち満タンになるところを見れば、「こういうクルマがあったらいいな~」なんて思いたくなります。

「空中の悲劇」
 フェリックス・ナダールとの交流に恵まれた経緯から得た、気球の描写が迫力があります。ヴェルヌがいた時代から見た「気球の歴史」が語られるシーン。読者を気球に同乗させるような描写からのリアリティが凄い。

 完全にポオの「軽気球夢譚」を超えているし、、読み応えがあります。注釈が作品に深みを与えているようにも見えます。長崎県諫早市が故郷なので、佐賀県のバルーンフェスティバルを観に行った思い出があります。気球の描写が迫力がある。

「マルティン・パス」
 冒険要素はない珍しい小説ですね。差別があった頃の時代を背景にした群像劇といったところでしょうか。瀑布に呑まれるラストを見て連鎖反応で思い出したのがありました。
 ヴィクトル・ユゴーの「ビュグ・ジャルカル」と「ノートルダム・ド・パリ」の名シーン。
「ビュグ・ジャルカル」からはビュグ・ジャルカルとアビブラが滝口でもみあって、アビブラが落命するシーン。
「ノートル・ダム・ド・パリ」からは、クロード・フロロが尖塔から転落死するシーン。
両方ともに強烈な印象を残したので思い出した次第です。こじつけかもしれないけど。
この作品で出てきた「深淵」という表現。ユゴーで刷り込まれたので重なり合ったのでしょうね。

 「永遠のアダム」から気がついたこと。
 この作品から、なんでも作中に出てくる人物名がニーチェの「ツアラトゥストラ」を意識したものだとか。この情報は確か中央公論社刊「世界の文学」からの情報なんですよね。ずっと気になっていたのですけど、ヴェルヌとニーチェってどんな繋がりがあったのでしょうか?

「〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険」の感想

(左右社)
「〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険」(石橋正孝著)

 この本はすべて読み切ったわけではありませんけれど、もう一冊の「名編集者エッツェルと巨匠たち」(私市保彦)という分厚い本でも伝えきれていない、エッツェルのもう一つの顔がうかがえる凄い本だと感じ入っていました。フランス文学史のなかでエッツェルの存在がいかに巨大だったのか、改めて感服しまくっていました。

 削除しなければならなかった描写が多くあったにもかかわらず、エッツェルが見逃していた差別描写があった。それに注目して新たな視点で描いたもうひとつの評論「文明の帝国」は貴重な資料だと思いますね。

 この「文明の帝国」のなかで微妙だなと思ったのは、「二年間のバカンス」で黒人のモコ少年に料理を任せているのは、当時の考え方で差別的に「面倒なことは召使にやらせろ」という感情から出ていたものだとか。仮にこの「十五少年」を映像化したとする。モコに「料理は得意ですからやらせてください」と言わせたら、この一言で原作の差別の空気が消えてしまうと私は思います。実際、フランスで映像化された時キャラクターのモコ少年は削除されていたとか。黒人差別のあった時代の作品だから神経質になられたのでしょうね。

 さらに「海底二万里」(1969年刊行)のなかでは、パプア島の島民を人食い人種だという描写がある。それでも救いがあるのはコンセイユが撃った銃が酋長の腕輪を砕いた時「たかが貝だ!人間の命と比較にならない」とアロナックスに言わせることで同じ人間だと認めていることで心が温かくなるものがあります。

 その後「八十日間世界一周」(1872年)のなかでは「パプア島の未開人の姿は見えなかった。彼らは人類の階梯の最下位に位置する存在である。しかし彼らを食人種とするにはあやまりである。(岩波文庫「海底二万里」)P180から引用」というのがあります。
 これから分かるのは、ヴェルヌは「海底二万里」で書いたパプア島民についての描写を謝罪したのではと思いたくなります。そう思ったのは、ヴェルヌは船乗りや、交易商人から海の向こうの情報を得ていたそうだから。もしかしたら、エッツェルの指摘なのかもしれない。「人類の階梯の最下位…」はエッツェルの見落としというよりも、100年前の文化人ですから気づかなかったのでしょうね。

ちょっとつまらないことだけど、私の少年時代、ジャクソンズのなかのマイケル・ジャクソン(当時少年)をテレビで見て「黒んぼ」と呼んでいたことがあります。差別というよりも「…ちゃん」というような親しみのこもった言葉。この当時の日本ってことばに鷹揚だったのです。同世代の方ならご存知かもしれませんが。ちなみに私は昭和36年生まれ。50代です。

 話が脱線してしまいましたけど、100年前の海外文学や日本文学まで差別表現があっても時代の作品ですから鷹揚にならなければならない。2013年現代の価値観で批判する訳にはいきませんからね。よく文庫本の小説の終わりのページに「…この時代から鑑みて原文を尊重…」とありますから、それに倣うしかないのでしょう。

 しかし、ヴェルヌには残酷趣味があったので削除しなければ読みに耐えなかった。ヴェルヌのほとんどの作品にかかわっているエッツェルの校正をみると、アマチュアの私から見ても驚異の旅シリーズは、ヴェルヌとエッツェルの共同著作だと思いたくなります。

 「〈驚異の旅〉または出版をめぐる冒険」を最初に読んでびっくりしたのは、「八十日間世界一周」のオリジナルがエドゥアール・カドルだとか。他にも興味のある人物から検索して読む楽しみもあります。また手ごわい個所もあります。

 映画評論みたく書けば、「いや~、エッツェルってホントに凄いもんですね。ではまた楽しませていただきます」ということでしょうか。

ずいぶん長くなってしまいましたので、「永遠のアダム」感想は日を改めて書かせて頂きます。

『旅行給費』英訳

ヴェルヌ最晩年の作品で、『第二の祖国』と並んで壊滅的につまらないことで有名な(?)作品の英訳が遂に出たそうです。

http://www.upne.com/0819565129.html

序文を寄せているデースからは数年前から刊行の話を聞いていましたが、なかなか出ませんでしたので、「遂に」と書いたのですが、特に待っていた人もいないでしょうから、あくまで個人的な感慨です。デースはご苦労にも三種の刊本を照合して、異同を洗い出すことまでしていました。早速取り寄せたいと思います。

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