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新訳『地底旅行』

『地底旅行』光文社古典新訳文庫版(高野優訳)出ました。

前回の『八十日間』よりはましかなあ、と思いつつレジへ。税込1,379円(・・・)。

家に帰って岩波文庫とリーブル・ド・ポッシュ版を並べて最初の1ページ読んでみましたが、やっぱり相当意訳なのではないですか。

最初のprecipitamment(符号がつきませんが)を「竜巻のような勢い」というのはどうか。若干、気象現象的な意味合いもあるらしいが、リトレを見てもやっぱり、「大急ぎ」以上の意味しかないように思います。マルテの台詞もかなり違う。

ま、誤訳とは言いませんが(分類は嫌味)。自分が仏語できるわけでもないし。翻訳劇で、役者が思い切り台詞をいじってるようなものか、と最大限に好意的解釈をしておきます。しかし、まだ最初の1ページだし。

読書会目前で、今はこれ以上かかずりあってる暇はなし。終わったらもう少しチェックします。

ま、翻訳はともかく。「究極のSF」などと言ってる解説はいらん。SFの知識ゼロで書いてるのが丸わかり。『ジュール・ヴェルヌの世紀』も読んでいない。ヴェルヌが『種の起源』を読んでたはず、という根拠は何処に? あとがきはさらにひどい。リーデンブロックとハンスがドン・キホーテとサンチョ・パンサ? はあ? ドン・キホーテの言うことに黙々としたがうサンチョって何? 炭酸の抜けたコーラ? 
このへん、ざっくりけずって税込1,280円くらいにならんかったものか。
(ああ、また毒を吐いてしまった・・)

『八十日間世界一周』140年

今年はなんでも『八十日間世界一周』140周年記念だそうで、白水社の雑誌「ふらんす」の四月号から「対訳で楽しむ『八十日間世界一周』」という全六回の連載を担当させていただくことになりました。そこで改めてフォリオ・クラシック版を精読しなおしたわけです。岩波文庫の鈴木啓二訳、光文社の高野優訳、田辺貞之助訳、そしてウィリアム・ブッチャーの英訳を傍らに置いて。いろいろと細かい発見があって、何度も読んだはずなのに読めていないなと思いましたが、とりあえず各種訳について一言いっておきますと、高野訳は問題があると出た時から思っていましたが、今回ざっと眺めた限り、翻訳者の分を超えた補筆のあまりの多さにあきれました。特に登場人物たちの心情を勝手に忖度して説明しすぎる。それぞれの説明は解釈として興味深いし、適切だと思いますが、説明になった途端に通俗的になる。新訳の読者はこうまで手取り足取り解説してもらわなければ理解できないという老婆心としか思えず、端的に読者をバカにしています。段落の勝手な組み替えや訳し落としについてはなにもいいません。光文社新訳文庫は『赤と黒』『カラマーゾフ』の誤訳騒動で物議をかもしましたが、はっきりいって『八十日間』も十分に騒がれる価値がある。そうならなかったのは、やはりヴェルヌはどうでもいいと思われているからでしょう。

腹が立ってきましたが、高野訳にはいいところもあって、既訳(僕は今回は旺文社文庫は参照できませんでしたが)二種が間違っているところが直っている個所がいくつかあります。全体として、訳文の調子が原文に近いのはやはり鈴木啓二訳で、この翻訳が一番おすすめであることに変わりはありませんが、細かいところで意味の取り違いと思われる個所が意外とあり、細部では田辺訳の方が正確なことが多いようなので、参照していれば避けられた瑕疵という感じで残念な気がします(ただ、田辺訳には時々ポカがあります)。一番正確なのはやはりブッチャーの訳でこれに匹敵する邦訳は今のところありません。ちょっとおもしろい発見があったのですが、田辺訳は挿絵版ではなく、通常単行本の本文で訳しているので、はっきりした異同が一か所あります。アメリカで壊れかけた吊り橋を列車でわたるシーンの直前、対岸の駅までどれくらい距離があるかというところ、田辺訳の方が状況説明が詳しいのです。ブッチャーはなぜかこの異同を見落としています。

「そうです」と、車掌が答えた。「それに、歩いて駅まで行くのにそれくらいの時間が必要です」
「だが、駅はここから一・六キロぐらいのものだろう」と、旅客のひとりがきいた。
「そりゃ、一・六キロですが、河の向こう岸にあるんですよ」
「その河は船でわたれないのか」と、大佐がきいた。
「わたれません。河は雨で水かさがましています。それに、激流ですから、徒渉りのできるところをさがすために、北へ一六キロばかり、遠まわりをしなければならないのです」

これは草稿もそうなっているので、挿絵版でヴェルヌが短く書き直したと思われますが、意図がよくわかりません。

スタールとジョアノ

たまたま必要があって、この数日、ツルゲーネフの『けむり』を読んでおりました。最近の漂白されたような「新訳」たちの日本語の貧しさに染まった目には、ちょっと悪乗りしすぎのような神西清訳も慣れてくると心地よく、いま必要なのは(注による誤訳訂正も含めた)旧訳再見ではないかと天に唾を吐くようなことを思ったり、内容的にもいくつかの点で非常に興味深かったのですが、どうでもいいディテールにハッとしました。物語も大詰め、バーデン=バーデンで初恋の人に再会した主人公が駆け落ちの約束を取り付けたところへ、相手の夫が入ってきます。そして、夫婦の間でこんなやりとりが。

「お約束は守りますよ」
「おやどんな? ちょっと伺いたいもんだね?」と夫がきいた。
 イリーナはにっこりした。
「だめ、これは……内々の話。ちょっと旅行のことなんですの(セ・タ・プロポ・デュ・ヴォアイヤージュ)……気の向くままにふらりとね(ウー・イル・ヴー・プレーラ)。あなたごぞんじ、スタール夫人の書いたもの?」
「ああ! あれか、知ってるとも。とてもしゃれた挿絵がはいっていたね」(二十一章末)

スタール(Stael)夫人……これはもちろんStahlのはずです。この夫婦がスタール夫人の話をするとは思えない。「お望みの場所への旅Voyage où il vous plaira」は、エッツェルがスタール名義で書き、トニー・ジョアノが挿絵を描いた本で、サロン向けの流行書でした。軽薄でフランスかぶれなロシア人夫婦でも手に取って当然の本、というわけです。とはいっても、この本、ジョアノの挿絵は繊細なグランヴィルといった感じでいいですし、スタールの本文も悪くなく、この種の挿絵本としては十分に佳作といえます。もっと知られて然るべき本だと思います。ツルゲーネフはエッツェルと昵懇の間柄で、パリはもちろん、バーデン=バーデンでも親交があったはず。自作の仏訳書の刊行者でもあるエッツェルの本をさりげなく宣伝しているんですね。神西先生の教養が仇となってツルゲーネフの誤記と好意的に解釈してしまった結果生じた誤訳ですね。

実は同じ本が別の作品の中で別の訳者によってひどい目に遭っているのを目にしたことがありました。フッツ=ジェイムズ・オブライエン「あれは何だったのか」(大滝啓裕訳、『金剛石のレンズ』所収)。

ジョアノが『ある航海、あるいはお気に召すまま』に付した挿絵の一点には(以下略)

où(英語のwhereに当たる)とou(英語のorに当たる)の混同によるタイトルの誤訳も、スタールとジョアノの作品自体がもっと知られていれば避けられたはずで、その点、フランス文学研究の責任というべきでしょうか。吉川先生訳のプルースト『失われた時を求めて』でスタールの名が少しは浸透することを願いたいところです。

「悪い土地」について

『征服者ロビュール』を読み直す必要が生じ、あまり時間もないので、邦訳でさっと、と思ったところ、なんだかひっかかるところが続出して、原文と始終照合するはめになり、結局余計に時間を食ってしまいました。全文を照合したわけではありませんが、重要な出だしの部分に、単純な誤訳以外にも、というか、それ以上に、普通に読めば難なく理解できるのに、なぜか前後と脈絡が合わないと勝手に「解釈」し、その解釈に基づいて書き直してしまっている個所が複数見つかりました。その結果、文意がまったく正反対になっている個所もちらほら。段落も勝手に変えられています。これはやはり、ヴェルヌが軽んじられていた、ということのように思えてなりません。この小説、ヴェルヌは相当に「悪乗り」して書いているのですが、そういう側面がかなり弱められてしまっている印象を受けました。

が、今回はそのことを書きたいのではなく、この小説の第八章に登場する「『ネブラスカの不毛の地』と呼ばれる地域」のことです。この部分を読んでぴんと来られた方もおられるかもしれません。そう、『海底二万里』の冒頭です。第二章で初めて名乗りを上げるアロナックス教授は、やはりネブラスカのmauvaises terresにおける調査を終えたばかりでした。直訳すれば「悪い土地」となるこの部分、僕が子供の頃に読んだ福音館書店版では「気候の悪い土地」となっていたのですが、子どもとは恐ろしいもので、こういうどうでもいい細部を心に留めてしまうんですよね。僕はこの「気候の悪い土地」にどういうわけか強い印象を受け、どんな土地なんだろうという夢想がずっと淡く尾を引き続けました。淡く、というのは具体的に思い浮かべようとしたわけでもなく、調べようとも思わなかったという意味ですが(なんだか陰鬱な風土をぼんやりと思っていたような……)、なんにせよ、「気候の悪い土地」とそこから連れてこられた生きたままのイノシシはずっと心の片隅に残ってしまった次第。当時の僕の漠たる空想では、「気候の悪さ」は、風土論的に(?)「健康に悪い」というイメージを伴っていたようです。いま、改めて各種邦訳を参照すると、大友・私市・朝比奈各氏の最新訳以前には、「気候の悪い」としている訳が複数あり(おそらくどなたが先にそう訳したのに「右にならえ」したのでしょう……)、ずばり「健康に悪い」が一例、そして「不毛の地」が一例でした。いずれにせよ、「悪い土地」とはどう悪いのか、みなさん、かなり解釈に頭を悩ませた形跡が伺えます。

さて、ヴェルヌは『ロビュール』では、この「悪い土地」をMauvaises Terresと大文字で地名として書いており、さらにその描写からも疑う余地はなく、これは「ネブラスカ荒地」(朝比奈美知子訳)とでもすべき地名なのです。このことは、ジャック・ノワレによる『海底』注釈(フォリオ・クラシック)でも説明がされていますが(ちなみに英語「原文」だとBadlandsで、『ジーニアス英和大辞典』によれば、「サウス・ダコダ州南西部からネブラスカ州北西部にかけての不毛地帯をさす」)、さらに、草稿を見れば、ヴェルヌははっきりと大文字で書いています。これが小文字になったのは誤植ですが、そのために普通名詞化してしまい、翻訳者を悩ませることになってしまったわけです。

最後に、『ロビュール』の誤訳から、一瞬原文の読解に困ってしまった個所を。空から聞こえる謎の音や発光体をめぐって、ベルリン天文台とウィーン天文台が対立し、ロシアのプルコワ天文台が仲介に入るところです。

この現象の性質を究明する場合、観測場所によって違う結果がでるということである。理論上そんなことはあり得ないが、実際にはあることだそうである。(手塚伸一訳、第一章)

え?と思って原文を見ると――

...cela dépendait du point de vue auquel ils se mettaient pour déterminer la nature du phénomène, en théorie impossible, possible en pratique.

(試訳)それは、この現象の性質を突き止めようとする際の、観点の相違にすぎないという。すなわち、理論的見地に立てばありえない現象であるが、実際的見地に立てば、ありえるのだそうだ。

……ということだと思うのですが、いかがでしょうか。

凹状の曲線

『地球から月へ』第6章にこんな一節があります。

月が、地球のまわりを公転するときに通る線については、ケンブリッジ天文台があらゆる国の無知な人たちにもわかるように、ていねいに教えてくれた。この線は円ではなくて楕円の凹曲線で、地球がその中心になっている。

鈴木力衛訳(集英社)

地球をめぐって公転する間に月が動いていく軌道については、これが凹状の曲線を描いていることを、どんな国の蒙昧漢にでも分かるようにケンブリッジ天文台が説明していた。円軌道ではなくて、ふたつの焦点のひとつを地球とする楕円軌道なのである。

高山宏訳(ちくま文庫)

月が地球の周りを楕円を描いて公転しているのは周知の事実ですが、その軌道が「凹(状の)曲線」とはどういうことでしょうか。例えば「凹多角形」と言った場合、これは「凸多角形」の対義語で、180度より大きい角をもつ多角形を意味します。同様にして「凹曲線」と言った場合、どこか凹んだ箇所のある、例えば瓢箪の輪郭のような曲線ということになりますが、楕円はもちろんそのような曲線ではありません。

原文を見てみましょう。

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