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「悪い土地」について

『征服者ロビュール』を読み直す必要が生じ、あまり時間もないので、邦訳でさっと、と思ったところ、なんだかひっかかるところが続出して、原文と始終照合するはめになり、結局余計に時間を食ってしまいました。全文を照合したわけではありませんが、重要な出だしの部分に、単純な誤訳以外にも、というか、それ以上に、普通に読めば難なく理解できるのに、なぜか前後と脈絡が合わないと勝手に「解釈」し、その解釈に基づいて書き直してしまっている個所が複数見つかりました。その結果、文意がまったく正反対になっている個所もちらほら。段落も勝手に変えられています。これはやはり、ヴェルヌが軽んじられていた、ということのように思えてなりません。この小説、ヴェルヌは相当に「悪乗り」して書いているのですが、そういう側面がかなり弱められてしまっている印象を受けました。

が、今回はそのことを書きたいのではなく、この小説の第八章に登場する「『ネブラスカの不毛の地』と呼ばれる地域」のことです。この部分を読んでぴんと来られた方もおられるかもしれません。そう、『海底二万里』の冒頭です。第二章で初めて名乗りを上げるアロナックス教授は、やはりネブラスカのmauvaises terresにおける調査を終えたばかりでした。直訳すれば「悪い土地」となるこの部分、僕が子供の頃に読んだ福音館書店版では「気候の悪い土地」となっていたのですが、子どもとは恐ろしいもので、こういうどうでもいい細部を心に留めてしまうんですよね。僕はこの「気候の悪い土地」にどういうわけか強い印象を受け、どんな土地なんだろうという夢想がずっと淡く尾を引き続けました。淡く、というのは具体的に思い浮かべようとしたわけでもなく、調べようとも思わなかったという意味ですが(なんだか陰鬱な風土をぼんやりと思っていたような……)、なんにせよ、「気候の悪い土地」とそこから連れてこられた生きたままのイノシシはずっと心の片隅に残ってしまった次第。当時の僕の漠たる空想では、「気候の悪さ」は、風土論的に(?)「健康に悪い」というイメージを伴っていたようです。いま、改めて各種邦訳を参照すると、大友・私市・朝比奈各氏の最新訳以前には、「気候の悪い」としている訳が複数あり(おそらくどなたが先にそう訳したのに「右にならえ」したのでしょう……)、ずばり「健康に悪い」が一例、そして「不毛の地」が一例でした。いずれにせよ、「悪い土地」とはどう悪いのか、みなさん、かなり解釈に頭を悩ませた形跡が伺えます。

さて、ヴェルヌは『ロビュール』では、この「悪い土地」をMauvaises Terresと大文字で地名として書いており、さらにその描写からも疑う余地はなく、これは「ネブラスカ荒地」(朝比奈美知子訳)とでもすべき地名なのです。このことは、ジャック・ノワレによる『海底』注釈(フォリオ・クラシック)でも説明がされていますが(ちなみに英語「原文」だとBadlandsで、『ジーニアス英和大辞典』によれば、「サウス・ダコダ州南西部からネブラスカ州北西部にかけての不毛地帯をさす」)、さらに、草稿を見れば、ヴェルヌははっきりと大文字で書いています。これが小文字になったのは誤植ですが、そのために普通名詞化してしまい、翻訳者を悩ませることになってしまったわけです。

最後に、『ロビュール』の誤訳から、一瞬原文の読解に困ってしまった個所を。空から聞こえる謎の音や発光体をめぐって、ベルリン天文台とウィーン天文台が対立し、ロシアのプルコワ天文台が仲介に入るところです。

この現象の性質を究明する場合、観測場所によって違う結果がでるということである。理論上そんなことはあり得ないが、実際にはあることだそうである。(手塚伸一訳、第一章)

え?と思って原文を見ると――

...cela dépendait du point de vue auquel ils se mettaient pour déterminer la nature du phénomène, en théorie impossible, possible en pratique.

(試訳)それは、この現象の性質を突き止めようとする際の、観点の相違にすぎないという。すなわち、理論的見地に立てばありえない現象であるが、実際的見地に立てば、ありえるのだそうだ。

……ということだと思うのですが、いかがでしょうか。

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