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スタールとジョアノ

たまたま必要があって、この数日、ツルゲーネフの『けむり』を読んでおりました。最近の漂白されたような「新訳」たちの日本語の貧しさに染まった目には、ちょっと悪乗りしすぎのような神西清訳も慣れてくると心地よく、いま必要なのは(注による誤訳訂正も含めた)旧訳再見ではないかと天に唾を吐くようなことを思ったり、内容的にもいくつかの点で非常に興味深かったのですが、どうでもいいディテールにハッとしました。物語も大詰め、バーデン=バーデンで初恋の人に再会した主人公が駆け落ちの約束を取り付けたところへ、相手の夫が入ってきます。そして、夫婦の間でこんなやりとりが。

「お約束は守りますよ」
「おやどんな? ちょっと伺いたいもんだね?」と夫がきいた。
 イリーナはにっこりした。
「だめ、これは……内々の話。ちょっと旅行のことなんですの(セ・タ・プロポ・デュ・ヴォアイヤージュ)……気の向くままにふらりとね(ウー・イル・ヴー・プレーラ)。あなたごぞんじ、スタール夫人の書いたもの?」
「ああ! あれか、知ってるとも。とてもしゃれた挿絵がはいっていたね」(二十一章末)

スタール(Stael)夫人……これはもちろんStahlのはずです。この夫婦がスタール夫人の話をするとは思えない。「お望みの場所への旅Voyage où il vous plaira」は、エッツェルがスタール名義で書き、トニー・ジョアノが挿絵を描いた本で、サロン向けの流行書でした。軽薄でフランスかぶれなロシア人夫婦でも手に取って当然の本、というわけです。とはいっても、この本、ジョアノの挿絵は繊細なグランヴィルといった感じでいいですし、スタールの本文も悪くなく、この種の挿絵本としては十分に佳作といえます。もっと知られて然るべき本だと思います。ツルゲーネフはエッツェルと昵懇の間柄で、パリはもちろん、バーデン=バーデンでも親交があったはず。自作の仏訳書の刊行者でもあるエッツェルの本をさりげなく宣伝しているんですね。神西先生の教養が仇となってツルゲーネフの誤記と好意的に解釈してしまった結果生じた誤訳ですね。

実は同じ本が別の作品の中で別の訳者によってひどい目に遭っているのを目にしたことがありました。フッツ=ジェイムズ・オブライエン「あれは何だったのか」(大滝啓裕訳、『金剛石のレンズ』所収)。

ジョアノが『ある航海、あるいはお気に召すまま』に付した挿絵の一点には(以下略)

où(英語のwhereに当たる)とou(英語のorに当たる)の混同によるタイトルの誤訳も、スタールとジョアノの作品自体がもっと知られていれば避けられたはずで、その点、フランス文学研究の責任というべきでしょうか。吉川先生訳のプルースト『失われた時を求めて』でスタールの名が少しは浸透することを願いたいところです。

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ishibashi 2012年01月23日(月)17時45分 編集・削除

……ひょっとして、勘違いは神西先生ではなく、イリーナなのでしょうか? だとすれば相当意地悪いことをツルゲーネフはしていることになりますが……機会があったら他の訳者のものも見てみましょう。