記事一覧

読書会   ある会員の活動25(2)

このカテゴリ、23が抜けていたので、今回を25の(2)とする。次回が第26回。

ABCのニュースがオバマの再選当確を打った。その前にCNNも当確を出していたので、まあ間違いないだろう。下院は引き続き共和党がとりそうなので、現状から変化はなさそうか。来年3月の就任時は、リンカーンが暗殺されて148年が経っている。

さて、10月28日(日)に読書会があった。テーマは『地球から月へ』、『月を回って』の二作。20年後に書かれた『上を下への』を合わせ、ガン・クラブという変人の集まりが活躍する三部作と言っていいのだが、今回は最初の二作、月への旅行を描いた二部作をとりあげた。

本来、石橋さんが翻訳した新訳版刊行とタイミングを合わせて、という目論見であったが、刊行は二月予定ということで、参加者は私家版(これはこれでレアアイテム)を購入して望んだ。

石橋さんは名古屋での学会から直接来たとのことで、風邪を引いて具合が悪そうだった。新島さんも風邪引き。忙しいのはいいことだと思うが、心配なことだ。
13時半頃から大橋博之さんの司会でスタート。後から来た人も含めて9名であった。私市先生が珍しく参加されなかったのは残念。

事前に配布されていたテーマに沿って進行。個人的にはやはり準備不足だったな、という後悔が残った。

当時の月への一般的な知識レベルであるとか、ヴェルヌの元ネタなどについて当然議論がなされることは予想できたのだが、資料として『ジュール・ヴェルヌの世紀』に思い当たったのが前日の晩であった。

そういうことにかけてはこの本はまさに必携である。皆さん買いましょう。巻末の年表にはヴェルヌの年譜に当時の科学トピックを並べた年表もついている。

このあたりは私ももっと勉強しなければならないが、啓蒙時代から革命期を経て、19世紀前半のフランスはイギリスと並んで科学研究のトップランナーだったのであり、ラボアジェ、ラプラス、ラマルク、カルノー、フーコー、ベルナール、パストゥールの他、海王星を発見したルヴェリエや、日本ではあまり知られていないベルトロやアラゴーといった学者がいた。

このうち(フランソワ・)アラゴーの『大衆天文学』はヴェルヌの元ネタとして重要であるらしいが、読書会の時点で見落としていたのが、ヴェルヌはフランソワの弟ジャック・アラゴーと若い頃に知り合っているとちゃんと書いてあった。そしてそのことは、持参していたちくま文庫版『詳注版 月世界旅行』にも書いてあったのだから、全くの見落としである。その辺、ちゃんと確認が必要だった。

『詳注版 ーー』には、ジャック・アラゴーの家で、ヴェルヌはナダールに初めて出会ったとも書かれているが、これも本当なのか確認が必要であった。すべて準備不足が原因である。

『地球から月へ』のあとの月SF作品のリストもあったのだが、SFとは言わないまでも、『ドリトル先生』シリーズにも『月からの使い』『月へ行く』『月から帰る』の三部作があったのを思い出したが、言わなかった。

『月からの使い』では先生が宇宙はエーテルで満たされているとスタビンズ君に説明する場面がある。今調べると、1927年の作品であるから、まだそのころはエーテルの概念は一般的であったということか。大きな花からでるガスを吸って、宇宙旅行に耐える、という設定であった。月には水も空気もあったし。

言い落としたことはあったが、いろいろ話して17時前に終了。喫茶店で雑談して帰った。皆様風邪には気をつけましょう。

ちょっと言い足りなかったことは、ゲラ稿で付け足すか、特集用原稿に追加することにする。

肝心の原稿はなかなかできない。もう少しでまとまりそうな気がしている、という段階(ひどい表現だ・・)。本当は10月末までだったが、石橋会長から年内に、というありがたい執行猶予のお達しがあった。

大統領、で思いついたことがあるので、見通しがたってきたように思っている。

さて、最近読んだ何冊かの雑誌について。

現代思想増刊はチューリング生誕100年。なぜか円城塔が書いている。なぜかってこともないのかもしれないが、読んでいて、円城塔の作品を読んでいつも何かが物足りない、と思っていた理由が何となく分かってきた。新島さんがほめていたけど、『屍者の帝国』どうしようか。

せっかく前編を読んだのだから、後編も読むことにして『メタポゾン』秋号を買う。発行部数二千部だそうな。
それにしても、巻頭エッセイの阿部和重、國分功一郎、岡和田晃。まあ、ここに書くこと自体、ある意味偉いのかも知れないが、どうも内容に緊張感が足りない気がする。分量も少ないし、大西巨人が読んだらどうしようとか、考えないのだろうか。読まないだろうけど。

で、石橋さんがひっそり会員の動向としてコメントしていた『ユリイカ』の横尾忠則特集。確かに、いきなりヴェルヌが出てきたら横尾忠則に興味を持って読んでる人は戸惑うかも知れない。しかし、ジョージ・マクドナルドやルイス・キャロル、トマス・ド・クインシーといった固有名にヴェルヌの名が並記されるのは新たな視点を読者にもたらすだろう。そういう視点から見れば、『ナルニア』も冥界のユートピアなのだろうか。『千と千尋の神隠し』はもちろんのこと。

個人的には、横尾忠則といえば子どもの頃見ていた『ムー』というTVドラマのタイトルバックが横尾だったのだが、続編『ムー一族』と同じ頃にオカルト雑誌のおなじみ『ムー』が創刊されて、いつの間にか横尾忠則=ムー=怪しい、という間違った観念連合が脳裏に刻まれてしまったようだ。おかげで深く知らないまま現在に至っている。『ユリイカ』を読んでも、これから興味がわくことはなさそうだ。

ヴィクトル・ユゴー関連

 2012年12月公開の超話題作「レ・ミゼラブル」にヤキモキしているこの頃です。なんでも、「レ・ミゼラブル」原作は刊行されてから150周年ということで、いままでブロードウェーミュージカルとして親しまれていた作品をベースにしたスケールの大きな映画らしい。
 以前、私の書き込みのコメント欄に、ishibashiさんは映画「笑う男」を紹介されていましたね。なんとなく気になって、ユゴーで検索してみたら、もう一つの映画「笑う男」が2012年、製作中!?
 いつ公開されるのか分からないし、日本公開時期も未定だとか。

http://eiga.com/movie/64748/

URLで紹介したページは最初にヒットしたサイト。かなり前に大まかなストーリーを掴んでいました。なんでも、貴族の息子が幼児期に、一生笑わせてやるとナイフで口を裂くという恐ろしいエピソードを掴んでいました。なるほど、「バットマン」のジョーカーの設定はここから使ったのか…そう思うとなおさら観たくなります。

 ユゴーは怪奇趣味があるのは知っていましたし、彼はまた生涯「良心」をテーマにした作品を貫いているので、恐ろしいのは冒頭だけで、後はきっと人間らしく生きてゆくストーリーなんだろうな…と勝手な推測をしています。

ブロードウェーミュージカル「レ・ミゼラブル」が長い間話題になっていたのに、ユゴーファンの私には海外にも行ったことがないばかりか、ブロードウェーという富裕層の居場所に場違いな自分を想像してはひがんでいました。

そんな時、2012年12月公開映画「レ・ミゼラブル」の近日公開映像を一ヵ月前に観て興奮しまくっていました。また、映画「笑う男」の公開時期が気になりますね。鹿児島でも公開されるのか不明だから、心配です。
「笑う男」の小説も刊行されたらどんなに嬉しいか…。「クロード・グー」も未訳だし。

それから、ishibashiさんに一言。本日の昼頃にメールでパスワードを受け付けなくなった…と送信していましいたが、デスクトップ画面にメモ機能で書いていたのを忘れていました。パソコン画面、目の前に貼り付けていたのに赤面の至りです。

東京骨灰紀行

ちくま文庫今月の新刊、キース・ロバーツ『パヴァーヌ』の復刊に気を取られていて小沢信男『東京骨灰紀行』に気付かず、書店で不意打ちをくらって思わずのけぞってしまった。
この機を逃してはいけない。迷わず買う。

莫言は単行本も文庫ももう見当たらない。どこかのフェアに回されたか。

聞いたこともなかった人がほとんどだと思うのだけど。
某所でどっかのおじさんが、「日本が負けてくやしい。特に中国に負けたのが気に入らない」と言っていて具合が悪くなりそうになる。いつから国別対抗戦になったんだよ。まあ、それがノーベル賞というものの限界なのか。ムラカミ君が今後とれる可能性は低いと思うけど。

SF挿絵画家の時代

大橋博之さんの『SF挿絵画家の時代』発売中ですね。日本SFを彩ってきた挿絵と挿絵画家をディープに紹介してます。

書店で見かけてカバーのプロフィールを拝見すると、「日本ジュール・ヴェルヌ研究会会員」と書いてあって素晴らしい。
その場で買うのを我慢して、ちゃんとヴェルヌ書店で買うことにしました。

死角と明察   ある会員の活動25

ぼやぼやしているうちに、9月も後半となった。

昨夜会員に対し、会誌の締め切が10月末である旨、改めて通達があった。したがって、ishibashiさんに前回振られた単位系にいつまでもかまけていることはできなくなった。今日まで調べたことを簡単に記しておく。もっとも、このくらいはishibashiさんはとっくに調べ済みとは思うが。

『万物の尺度を求めて』に詳しく記されているが、ヨーロッパの度量衡はフランス革命の時期を境に国際的な変動期を迎える。フランスで算定され、法制化されたメートル系が1世紀をかけてヨーロッパのほとんどの国で批准されていくのだが、無論トップダウンの改定であるがゆえに、社会全体に浸透するにはさらに時間がかかった。フランスでも、ナポレオンが一度廃止するなど、メートル法の定着には長い時間が必要だった。

それまでは王政に決められた尺度で各国独自に通用していたが、基本的に考え方は古代文明やローマ帝国時代と同じであった。つまり、王の身体が尺度であったのだ。長さを例にすると、英米のフートfoot(フィートfeet)は「足」であり、フランスのピエpiedも「足」である。面倒くさいのは、人間の足はそんなに大きさが変わらないので、どれもそんなに違いがない、つまり日常的には1対1で換算できてしまうと考えられていたらしい。

『丸善 単位の辞典』によって今の尺度に直すと、1ピエは32.484㎝、イギリスの1フートは30.480㎝である。それぞれその12分の1がフランスでプースpouce、イギリスでインチinchとなる。

イギリス・アメリカではいわゆるヤード・ポンド単位系が根付いていたため、イギリスが小売業にメートル法の単位での商品販売を義務付けたのは2000年1月1日のことであった。アメリカではまだメートル法は事実上採用されておらず、少しずつ民間に浸透しつつある、という程度だそうだ。

さらにややこしい話だが、イギリスでは19世紀にヤード・ポンド法を制定する際にメートルとの換算値を何度も見直しているが、アメリカはそれに従わず、19世紀末にようやく独自に定義づけている。つまり、現在でもイギリスとアメリカでは同じ名称の単位でメートル法換算値が違うのである。そしてイギリスでは、古来からの常用度量衡と19世紀に定められた帝制度量衡、さらにその後制定されたヤード・ポンド法の数値が混在している。もっとも、その差は長さで言えば10分の1ミリレベルの話だ。

そうした背景の知識がないと、何で1865年に発表された『地球から月へ』でピエやプース、重さではリーヴルといった古来の単位用語が使われているのか分からないということになる。漠然と、昔の外国の小説だから昔の外国の単位なんだよね、と安直に考えてしまうのだが、フランスはもうメートル法を採用していたのだから、社会的慣習に従っているのだとしか考えようがない。新聞に発表されたのだから、いかにメートル表記が当たり前になっていなかったか、ということだろうか。日本で言えば尺や貫目で表記しているようなものだからだ。

そのうえで、ヴェルヌが注釈に記しているアメリカの単位やメートル法への換算を検証してみる。私は最初、ヴェルヌはマニアックにイギリスとアメリカの単位の微差を気にしているのかと思ったのだが、ことはそんなレベルではなかった。前述のとおり、アメリカとイギリスの度量衡はマクロで言えばほぼ変わらないと考えていい。

問題は、ヴェルヌがピエやリーヴルという単位用語を、フランス古来の尺度とみているのか、英米の単位であるフートやポンドの仏訳として使っているのか、よく分からないということなのだ。

顕著なのが重さの単位リーヴルである。ウィキペディアだの、ものの本だのを調べると、これはフランス古来の単位としては489gを示す。英米ポンドの訳語としては453gを示す。当時のフランスのメートル換算の慣用としては500gを表しているのだ。

『地球から月へ』の第7章では、24ポンドを24リーヴルのこと、としている。これは英米ポンドの訳語としているのだろう。

第8章では大砲の重さから作成経費を算出するとき、68040トンの大砲に対し、1リーヴルあたり10サンチーム(10分の1フラン)で換算すると13608000フランかかると算定している。これは1リーヴルを500gで換算している。

そして第9章では火薬の量を説明するときに、アメリカの1リーヴルは453gであると、注釈でわざわざ明記しているのだ。まるで、読者が違う数値(フランス固有の尺度)を想定しているようではないか。

この換算値の揺れをどう解釈すべきか。ひとつは、元ネタの数値をそのまま引用していて、ネタ本の換算基準がばらばらなのを気にしていないのではないかということが考えられる。

もうひとつは、うがった見方だが、ヴェルヌが章ごとに換算値の根拠をずらすことで、ふざけているのではないかというものだ。社会的な度量衡の混乱に対する風刺か、もしくはヴェルヌお得意のダジャレへの感性が、単位を示す言葉の複数の意味(ダブル・ミーニング)に反応して、分かりにくい冗談、読者が計算を追っているうちに頭が混乱するのをみこした、オペレッタ風の喜劇として演出したのではないか。

※ポンドとリーヴルでは言葉が全然違うように見えるが、もともとローマ時代のリブラ(天秤の語源でもある)から来ていて同源のものだ。ポンドの単位記号はlbである。

リアルなようでナンセンスな喜劇、という意図が、『地球から月へ』のヴェルヌにあったことは十分考えられることであろう。

ところで、そうだとしても、ヴェルヌの計算はよくわからないところがある。第22章で「32プース(0.75㎝)の臼砲」という記述があるが、フランス古来の尺度では32プースは86.6㎝である。インチの訳語としてでも81.28㎝だ。桁間違いですらないので、何を間違えたのかすらよくわからないが、間違っている。単なる校正ミスであろうか。

また、『月を回って』第9章では、底面積54平方ピエの砲弾内に、3ピエの高さまで水が入っていて、体積は6立方m、重量が5750kgという説明がある。6立方mという記述はおおよその表記と好意的に解釈するとして、5.75tの水であるから5.75立方mであると考えても、1立方ピエは0.0343立方mである(『単位の辞典』によれば、1立方トアズ=7.4037立方m=216立方ピエ)から、162立方ピエは5.56立方mにしかならない。いったい何を見てこういう計算をしているのだろうか。

ちらっと本文をあたっただけなので、まだあるかもしれないと思うと頭がおかしくなりそうだが、これは翻訳においてきわめて危険なことだ。たとえば、『グラント船長の子供たち』の冒頭、バランス・フィッシュの重量が600リーヴルとなっているが、邦訳はあっさり270kgと訳している。これはポンド換算であるが、500g換算なら300kgなのかもしれないのである。

と、何だかおそろしい話になったが、ここまでで打ち切らざるを得ない。いろいろ単位の歴史を書いた本なども読んでみたが、いずれもメートル法が国際基準になって人類は進歩してよかったね、という感じで、19世紀後半までピエだのリーヴルだのが幅をきかせていたなどとは書いていない。そういう意味でも『万物の尺度を求めて』は良書と思う。

メートル法によってすべてが明瞭になった、などと夢にも思わないことだ。単位の本を読んでいたら、読み始めた某『天地明察』の続きを読む気が失せてしまった。明察には必ず死角が潜むのである。石橋さんに教えてもらって、ポール・ド・マン『盲目と洞察』を発売と同時に落手できた(感謝です)。「文学(ないし文芸批評)を覚醒=脱神秘化と捉える考え方こそ、あらゆる神話の中でもっとも危険な神話なのだ」(P31)。この言葉が科学には適用されないと誰が断言できようか。

ページ移動