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「永遠のアダム」感想

(文遊社)「永遠のアダム」評

 翻訳者の江口清氏といえば、(旺文社文庫)「海底2万リュー」をつい思い出してしまいます。この頃は翻訳された時代が古かった。事実と後世の創作談がまじりあっていたせいか「アメリカから『海底二万里』刊行の以来…」をうながす話を事実だと思いこんでいました。
 (パシフィカ刊)「永遠のアダム・エーゲ海燃ゆ」の解説を転載しているせいか、事実と後世の創作の区別が分からないですね。

「永遠のアダム」
 ジュール・ヴェルヌ作品として読むと、彼の作風ではないのがはっきり分かりますね。書いたのはミシェル・ヴェルヌだそうですが、彼も作家になってもいいような独特の面白さがあります。
 なんだか、イタロ・カルビーノの作品をスケールアップしたような趣がなんともいえない。世界がすべて沈没するっていう展開で(筒井康隆)「日本以外全部沈没」を連想してしまいました。はたまたは映画「2012年」か。

 「永遠のアダム」を読んだ後で、イタロ・カルビーノの「見えない都市」を読むと、まるで続編に思えてくるような面白さがたまりません。自動車の描写が印象に残る。モーターの電源を入れた瞬間ガソリンがたちまち満タンになるところを見れば、「こういうクルマがあったらいいな~」なんて思いたくなります。

「空中の悲劇」
 フェリックス・ナダールとの交流に恵まれた経緯から得た、気球の描写が迫力があります。ヴェルヌがいた時代から見た「気球の歴史」が語られるシーン。読者を気球に同乗させるような描写からのリアリティが凄い。

 完全にポオの「軽気球夢譚」を超えているし、、読み応えがあります。注釈が作品に深みを与えているようにも見えます。長崎県諫早市が故郷なので、佐賀県のバルーンフェスティバルを観に行った思い出があります。気球の描写が迫力がある。

「マルティン・パス」
 冒険要素はない珍しい小説ですね。差別があった頃の時代を背景にした群像劇といったところでしょうか。瀑布に呑まれるラストを見て連鎖反応で思い出したのがありました。
 ヴィクトル・ユゴーの「ビュグ・ジャルカル」と「ノートルダム・ド・パリ」の名シーン。
「ビュグ・ジャルカル」からはビュグ・ジャルカルとアビブラが滝口でもみあって、アビブラが落命するシーン。
「ノートル・ダム・ド・パリ」からは、クロード・フロロが尖塔から転落死するシーン。
両方ともに強烈な印象を残したので思い出した次第です。こじつけかもしれないけど。
この作品で出てきた「深淵」という表現。ユゴーで刷り込まれたので重なり合ったのでしょうね。

 「永遠のアダム」から気がついたこと。
 この作品から、なんでも作中に出てくる人物名がニーチェの「ツアラトゥストラ」を意識したものだとか。この情報は確か中央公論社刊「世界の文学」からの情報なんですよね。ずっと気になっていたのですけど、ヴェルヌとニーチェってどんな繋がりがあったのでしょうか?

コメント一覧

ishibashi 2013年06月28日(金)20時15分 編集・削除

〈驚異の旅〉にもユゴーの影響はあちこちに見られますが――たとえば、滝つぼでヒーローとヒロインが死ぬのは『名無しの家族』にもあります――、初期作品はとりわけユゴーの影響が濃厚に表れています。『1835年のある司祭』という未完のゴシック小説などは『ノートルダム・ド・パリ』の模倣と言っていいくらいです。ユゴーやデュマは、この時代の小説家にとって共通の教養だったと言っていいんじゃないでしょうか。

ニーチェとヴェルヌについては、すでに雑誌『ユリイカ』のヴェルヌ特集号に加藤晴久先生訳で掲載されたマルセル・モレ「地下的な革命家」で扱われており、そこで「永遠のアダム」の主人公の名がツァラトゥストラのアナグラム(綴り変え)であることが指摘されています。この説は説得力があるので、ミシェル・ヴェルヌがニーチェを読んでいたことは間違いないですね。ヴェルヌもニーチェの名は知っていたでしょうが、読んだかどうかは僕にはわかりません(が、読んでいないような気がします)。ちなみに、モレは、ヴェルヌがニーチェに影響を与えた可能性を論じていますが、こちらはあまり説得力がありません。ただ、こういうことはあります。ナチスがニーチェの哲学を悪用したのは有名ですが、ゲッベルスがネモ船長をポスターに採用しようとしたことがあったらしい(このことは以前、synaさん――ちなみに会にいらっしゃいますよ――の掲示板に書いたことがあります)。ニーチェの「超人」とヴェルヌの英雄は、通俗的なイメージの次元で共振するところがある、ということは確かですね。しかし、今のところ、両者の間の直接的な影響関係は証明されていないと思います。

ishibashi 2013年06月29日(土)13時44分 編集・削除

それから、「空中の悲劇」(最初のタイトルは「気球旅行」)ですが、ヴェルヌがこれを書いた時にはたぶんまだナダールとは知り合っていませんし、ポオも読んでいません。友人の風刺画家フィリップ・ジルが気球に興味を持っていたので、その関係もあるのかもしれませんが、この短編について言えば、ルイ・フィギエという科学啓蒙家の長文の雑誌記事が元ネタであることは判明しています。

「マルティン・パス」は、最初に発表された時はもっと長かったのです。ティントレラが出てきているのにはお気づきになりましたか? ちなみに会誌四号の68頁をご覧いただけるとこの中編が話題になっています。ただ、おっしゃるようにこの作品、露骨なユダヤ人差別がプロットの要にあるので、ちょっと現在では扱いに困ることは事実です。