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レオン・ベネット

Léon Benett illustrateur : lettres et dessins inédits(『挿絵画家レオン・ベネット――未刊行書簡とデッサン』)という本が先月フランスで出版されたので、取り寄せて一読しました。綺麗な本ですし、著者として子孫が四名も名を連ねていますし、貴重な書簡やデッサンが収録されているのは事実ですし、このような本が出ること自体が有難いのは大前提として、正直かなり飽き足りませんでした。『八十日間世界一周』のアウダ救出シーンに関するエッツェルの描き直し指示はなかなかおもしろく(パスパルトゥを大きく描きすぎで、これでは英雄になってしまう、彼は道化役なのだから、英雄的な活動をする時は遠くから描き、全体をサーカスにすべきである、など)、期待させましたが、いかんせん、書簡の選択基準がわからない。ヴェルヌに関する書簡だけでも、『マチアス・サンドルフ』関係の書簡はヴェルヌの書簡も含めて充実していますが(しかし、これはヴェルヌ研究者はすでに読んでいるものばかり)、ベネットは二十作以上に挿絵を描いているわけですが、そのうちの数作に関する書簡が数通あるいは一通ずつだけというのでは……。ベネットは専業の挿絵画家ではなく、官吏として植民地を中心にずいぶんと方々に転勤を繰り返し、実地にスケッチを蓄えていた人です。そういうある意味「異色」の経歴を浮かび上がらせるためにでしょう、上司の書簡などもかなり収録されていますが、まあベネット研究者(いるのか?)以外には興味を持てないですねえ。スケッチも説明がついていないものが多すぎますし、ちょっとこれだけではどうしろというのか、という本でした。

しかし、『マチアス・サンドルフ』に関するエッツェルとベネットのやり取りを知れたのはとても収穫でした。サンドルフの顔をどう挿絵で描くのか、三者の間で議論になっていたのは知っていました。エッツェルは、風景画家としてベネットを高く買っていたものの(その意味ではリューと同じ位置づけというか、後継だったのでしょう)、人物は似たようなタイプばかり描くという不満を持っていて、そのタイプというのは痩せた、角ばった顔なのですが、『緑の光線』の挿絵をご覧になった方はオリヴァー・シンクレアの顔を思い出していただければ大体わかります。それは実はベネットご本人に似たタイプの顔なのです。サンドルフもそうなったので、エッツェルはひどく気に入らず、もっと目を大きくしたヴェルヌの顔がいい、といい、挙句には自分の息子の顔にしろ、といっていたのですが、実際にヴェルヌに問い合わせたら、「あなた(つまりエッツェル)の三十五歳の時の顔」といわれたわけです。この「鏡の戯れ」は前からおもしろいなあと思っていて、ヴェルヌにいわば鏡を突き付けられたエッツェルはどういう顔をしたのだろう、具体的には、ベネットにはどう伝えたのだろう、と気になっていました(僕だったら恥ずかしくて自分の口からベネットにいえそうにない)。そしたらやっぱりエッツェルはヴェルヌのその手紙をそのままベネットに転送していたんですね、関連部分を書き写して送り返せ、といって。なるほどなあ、と思いました。とはいえ、その後、エッツェル三十五歳の肖像画の写真を受け取ったベネットが描いた顔も気に食わなくて、エッツェル本人が自分の若かりし頃の顔を細かく描写していて、これがなんともおかしい。さすがに本人も照れたのか、とってつけたように、ヴェルヌは主人公を自分自身に似せる傾向があって、実は自分たちは似ているのだ、と書いていて、これにもなるほどなあと思いました。そういわれればヴェルヌはエッツェルにそうでありたいけどそうはなれない自分を投影していて、しかし、エッツェルにはできないこと(小説を書くこと)を自分はできているのだ、という自負があって、そのバランスの上に成立していた関係なんでしょうね。とにかく、この互いを鏡に映しあう関係は大変興味深く思われました。

無用のこと

ヴェルヌ研の活動ではなく(笑)、書くことがないのでこのようなタイトルになった。

だから、今回は会員活動とは関係がない。会の活動としては、編集作業続行中というところである。

書くことがないなら書かなければいいのだが、やや間が空いたので埋め草をしたくなった。

ユクスキュルという人だったか、生き物それぞれに世界における有意味な要素は違うので、世界観? はそれぞれ全く違うと述べていたと思う。アフォーダンス理論とかいったろうか。

裏を返せば、意味のないものはその生物の世界からは抜け落ちている、と捉えられなくもない。(たぶんユクスキュル先生の言っていることとは違うだろうけど)

しかし、人間という生き物は無意味なものも自分の世界に含みこんで生きている。不要不急は自粛という風潮であるが、何が不要あるいは無用かは人それぞれで、他人から見ればどうでもいいことでも、当人には案外有用なのかも知れない。

無用、無意味と思えるものも、考え方によっては有用、有意味である、などといいたいのではなく、無用は無用でいいのであり、否定すべきものなどないのではないか。

これは極論かもしれない。多くの人が無用と思うものの中には、犯罪などの社会病理を誘発する恐れがあるから、というものもあるだろうから。

何が無用か、というのは案外重要で、複雑な問題である。

私にとって今一番無用と思えることは、フッサールの『論理学研究』を読むことなのだが、ではなぜ読む気になったか、というとちょっと説明しづらい。

そもそも、まだほとんど読んでいないのだが。

長いし、まだすべて訳されていないようなので、じっくり読むことにする。

ところで、みすず書房のホームページを見ていたら、「月刊みすず」に小沢信男が連載しているようだ。しかし、「月刊みすず」など図書館にも置いていない。

来月には「大人の本棚」シリーズから山田稔が出るようだ。エッセイか小説かは分からない。

あす発売

2008年にフランスを代表する現代作家ミシェル・ビュトールが来日した時の学会の論集Michel Butor : à la frontière ou l’art des passagesが明日発売になります。ビュトールとヴェルヌの小説を比較する論文を寄稿させていただいています。日本語版はすでに発表済み。ビュトールといえば、ヴェルヌの文学的再評価のきっかけとなった論文「至高点と黄金時代」(『ユリイカ』のヴェルヌ特集号に邦訳がありますが、新訳の必要あり)でヴェルヌファンには親しい名前ですが、残念ながら作品はあまり読まれていないと思います。この論文をきっかけにして、ヴェルヌファンがビュトールに関心を持っていただければ嬉しいのですが……。

ある会員の活動 その6

世の中の雰囲気はすっかり変わってしまったが、東京の会社員の日常はそれほど変わらない。朝の電車が区間制限して乗り継ぎが面倒だったり(しかし、これも3月いっぱいで通常に復した)、残業しないよう(経費節減のため)指示されているくらいか。

3月20日に総会があったのは会長のご報告どおり。寒かったのもご報告どおり。しかし、会長のコメントは愚痴ですね、これ(笑)。

震災の影響ということではなく、春休みで大学の施設は設備点検していたようなのだ。借りる側も貸す側も気が付いていなかったようだし、借りたときにはもう少し暖かくなっているだろうという漠然とした考えがあったかもしれない。

しかし、3月下旬の関東は、毎年みんな勘違いしがちなのだが、今年に限らず案外まだ寒いのだ。

私がなぜか一番乗りで、カードキーを借りたり(この使い方もよくわからなかったのだが、細かいので省略)、設備点検の業者さんに丁重に出て行ってもらったりした(当然使用することは伝わっていなかった)。

その後の議事進行は略す。14時に始まり、17時半ごろであったか、終わった。

その後、いつも会合の後に行く居酒屋に行き、「あつかん」で体を温める。少々飲み過ぎ。

会誌第6号の特集テーマが早くも見えてくるなど、会則改定、役員変更以外にも実りある集まりだった。

ところでヴェルヌ研とは関係ない私事であるが、前会長である新島進さんの紹介により、SFマガジン5月号にスタニスワフ・レムについて寄稿した。草野球をしていたのが、急にプロのマウンドで投げさせられた感じだが、コントロールを気にせず直球勝負した。いい経験だった。新島さんに感謝。

興味をもたれた方はSFマガジンお買い求めください。雑誌・書籍の購入はヴェルヌ書店からどうぞ(笑)。

続ヴェルヌと関係ない話

今年の初めの投稿で紹介したブログ「本はねころんで」では、このところずっと小沢信男の著作の紹介をしてくださっていて、小沢初心者には大変有難く毎日楽しみに読んでいるところです。なにが有難いといって、山田稔もそうなのですが、再刊で収録作が変わったりするので、定本を買えばいいのだろうと安心してもいられないため、各単行本の収録作を知ることができる点なんですね。まあもちろん僕みたいに出遅れて読み始めた者は、とりあえず目に付いて面白そうなものを価格との相談で少しずつ揃えていきながら学んでいって、最終的には全部入手することになるにせよ、その過程が楽しいわけですが、ちょうどブログの連載がそれに寄り添ってくれている感じなのです。個人的になかなかタイムリーなのですが、ちょうど京都の「編集グループ〈SURE〉」という出版社が小沢信男の新刊を出すという情報がちょっと前に紹介されていたのもこちらとしては絶妙のタイミングで、基本直接注文のようなので早速代金を振り込んだところ、四月上旬刊行予定で予約受付ということだったのに、なんと早くも今日届くという、この打てば響く嬉しさ。おまけに代表の方の自筆一筆箋入りと、まことに心憎い限り。で、そのタイトルがまたふるっています。『小沢信男さん、あなたはどうやって食ってきましたか』。いやいや、力が抜けていますねえ。稿料がない『新日本文学』系の作家というのはどうやって食ってきたのかとは誰しもが素朴に思うところであって、食えるわけがないと思う頭の固い人たちの下司の勘繰りを招いたりもするわけですが、本当に「種明かし」されていて、これが実に面白い。いやもう、すでに最近読んだ何冊かですっかりファンになっていたのですが(『いま昔東京逍遥』『あの人と歩く東京』『悲願千人斬の女』)、とどめを刺されました。

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