記事一覧

脱稿  ある会員の活動14

今年もあと2週間足らずとなった。皆様いかがお過ごしだろうか。

私としては、やっとのことで13日に自由投稿の原稿を編集長に送ったところである。
なんでここまで時間がかかったのかと言えば、当初の見通しが甘かったからとしか言いようがない。仕事でも何でもそうだが、最初の見当を見誤るとロクなことがないいい例だ。
人間、若いうちに磨いておくべきはそうした感性ではないか(なんのこっちゃ)。

それでも一応、当初の目標だった15ページ以内という分量の抑制は達成できたと思う。もっとも、最後の方は議論を深められなかったために紙数が伸びなかったと言うべきか。

まあ、出来不出来は実力であるから、投稿までこぎつけられたことをよしとしなければならない。

さてこの時期は、年の終りに典型的な古典の名作を読むことにしている(何でかと言うと、そうとでも決めないと読まないから)。

と言ってもこれは最近の習慣で、一昨年はフォークナーの『アブサロム、アブサロム!』(講談社文芸文庫版)、昨年はフロベール『ボヴァリー夫人』(岩波文庫版)であった。

今年はいろいろあって(というか、自由投稿で少し触れたので)、ドストエフスキー『悪霊』になった。通して読むのは学生のころ以来で、細かい部分はすっかり忘れている。それに、当時のロシア社会の背景など、わからないことが多すぎて、理解できなかった部分も多いのではないかと思う。

年内に読み終わればいい、というペースで読んでいるので、ゆっくり読む。

他に読みたい本はたまっているが、仕事がら年末年始にまとまった休みがあるわけでもないので、欲張らないで今年はこれで終わりにする。

文庫とダブった単行本(『千のプラトー』とか)、新訳が出たもの(『ヴァインランド』とか)など、80冊ほどブックオフに売り飛ばす。たいした金額にもならないが、もう場所がないのだ。

プルーストとスタール

吉川一義先生が半年に一巻という驚異的なペースで『失われた時を求めて』個人全訳を刊行中ですが、この新訳の「売り」のひとつは、プルーストと絵画の関係を専門とされている訳者の強みを生かした豊富な図版にあるのはいうまでもなく、先日刊行されたばかりの第三巻には、そうした図版の中にあって、やや異色なものが一点。「花咲く乙女たちのかげに」には、スタール、すなわちエッツェルの絵本、リリ嬢シリーズに関する結構長い一節があります。これはエッツェル側から見れば、おそらく後世に与えられた最大・最上のオマージュということで、しばしば引用されてきたのですが、どういうわけか、誰ひとりそこで描写されている挿絵を特定する(できる)人はいなかったのです。プルースト研究側でもこの挿絵は特定に至らず、プレイヤード版の注にも説明はなし。ところがこのほど、私市先生のご尽力でそれらしい挿絵にたどり着くことができたという次第です(吉川先生はあとがきで「プルースト研究者はおろか、スタール研究者にもほとんど知られていない貴重な図版である」と記しておられますが、この「スタール研究者」は「エッツェル研究者」と読み換えるべきところでしょうね)。ただ、問題は、この挿絵が「教育と娯楽誌」の1902年の新年号に掲載されたものであるということ。プルーストの記述だと子供の頃の思い出のようなのですが、1902年だとすでに30歳。おそらくこの挿絵は絵本の構成要素ではなく、単発で雑誌掲載されたものと思われるので、当然添えられている文章も、署名こそ「S」となっていますが、1886年に没したスタール=エッツェルではないでしょう。だとすれば、いかなる経緯で「教育と娯楽」のこの号はプルーストの目に触れたのでしょう? ちなみにこの号から連載が開始されたヴェルヌ作品は『キップ兄弟』でした。リリ嬢の絵の直前に掲載されたヴェルヌの新作連載第一回目をプルーストは読んだのでしょうか? なお、岩波文庫362ページ掲載の図版をスキャンして提供してくださったのはフォルカー・デース氏であることを付け加えておきたいと思います。

さて、話は変わって、当会顧問の私市保彦先生がこのほど水声社から刊行が再開されたサド全集の最新刊で翻訳と解説を担当しておられます。同じ水声社からはバルザックの新たな選集の刊行が予定されており、先生はそちらでも獅子奮迅のご活躍ぶりの模様、なんとも精力的で敬服のほかありません。

執筆中   ある会員の活動13

はやいものでもう11月の半ばである。

この書き出しももういいか。それでも、いつのまにやら今年もあと一月半なのである。2012年なんて、SFでもあまり出てこない未来の年号なのだが。アトムの焼き直しのジェッターマルスだって2015年が舞台で、このまま行けばあっというまに到達する。

さて、肝心の原稿であるが、10月末が締切であった。結果としては、特集用原稿は投稿し、自由投稿は依然執筆中である。

特集用原稿はもくろみ通り、15ページほどに収めることができた。内容については自己判断不能状態。あとになって、いろいろアラが見えてくるのはいつものこと。最近はそれを気にしてぐずぐず手元で温めるのはやめることにしている。

ただ、今回はわりと早く題材を決めていたので、いろいろ参考書籍を読みあさることができた。邦訳を読み比べるなどということも少しはできたし。自己満足はしていることになろうか。

問題は自由投稿で、執筆中と書いたが執筆中断中といった方が正確である。途中まで書いていたのを、特集用原稿を優先して中断していたのだが、いざ再開しようとしても勢いが止まっていて筆が全く進まなくなった。まあ、ヴェルヌとは全く関係ない本業が忙しかったりもしたのだが、そんな状況でもいつもは頭の中では文章をひねっているのに、今回はまるで働かない。

勢いというのは恐ろしいものだ。さっさと書いてしまった方がよかったか。

どうもここまで来ると、さらから書きなおした方がいいのかもしれない。気を楽にして取り組んだ方が何とかなるものだ。編集長には梗概まで伝えてあるので却って気をもませてしまうが、テーマは変えませんのでもう少々お待ちください。

などと言いつつ、通勤電車でサマセット・モーム『お菓子とビール』を読む。面白いなあ。
ナボコフ『カメラ・オブスクーラ』をパラパラ読んだり、岩波文庫の新訳『アブサロム、アブサロム!』に吸い寄せられたり、以前Jule Verne Pageの掲示板でishibashi氏が指摘していたクロポトキン『ある革命家の思い出』が平凡社ライブラリーで再刊されたので、パガネルに触れた箇所を立ち読みで確認したり、気が散っているのは間違いない。

もうちょっと頑張らねば。

kindle

いつの間にやらキンドルで読めるヴェルヌ全集がフランスで出ていました。「驚異の旅」全巻に加え、『二十世紀のパリ』や戯曲版『ミシェル・ストロゴフ』、詩集が入っています。また、たぶんエッツェル版の粗悪なコピー本だと思いますが、この夏に大量にヴェルヌ作品が出版されています。

新雑誌

Jules Verne et Cieという雑誌がフランスで新しく創刊されました。ヴェルヌ研究家として知られるダニエル・コンペール氏が中心となって最近できたClub Jules Verne(大衆小説友の会の構成団体、http://www.fictionbis.com/clubverne/gestion/index.php)の機関誌です。特集はアジア。ヴェルヌおよび同時代の大衆小説家によるアジア像を取り上げています。僕も文字通りの拙文を寄せています。実はこの特集は本来はアミアンのヴェルヌ国際センターの雑誌Revue Jules Verneに載るはずだったのですが、同センターの内紛を受けてこういう形での刊行になりました。

早稲田文学4号に石川義正氏による「中原昌也の「熱気球」」という文章が掲載されており、ヴェルヌ『気球に乗って五週間』と「空中の悲劇」にも論及されています。僕はこの両作については十九世紀のほかの作家たちによる気球小説の比較する論文を書いたことがあるので、正直言及していただきたかったところですが、実は、個人的に早稲田文学の3号では奥泉光論で、2号ではビュトール論でヴェルヌについて論じさせていただいているので、この雑誌では三号続けてヴェルヌが登場していることになります。だからどうだということもありませんが、文芸誌でヴェルヌの名前を見ること自体が珍しいので、これはこれでちょっとした出来事かもしれません。

ページ移動