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アルニ・マグヌッソン!?

 先ほどNHK「検索deゴー!とっておき世界遺産」を楽しんでいたら、気になる人物が出てきました。後半「世界遺産バイキング伝説」のなかでアルニ・マグヌッソンの名前が出てきて心の中で「おっ!」と吠えていました。

 といっても、出てきたのは名前だけで解説なしでした。思わず「どんな人物なのか解説して欲しかった」というのが本心でした。
あの「地底探検」アルネ・サクヌッセンムのモデルとなった人物ですからね。こうも秘密にされたら、こちらのブログで皆さんと調べまくりたい心境です。さあ、どうでしょうか?

続・プルーストとヴェルヌ

どうもこちらのブログではつい重箱の隅をつつくようなことばかり書きたくなるようです。果たしてどの程度興味を持っていただける方がいるかどうか。

以前shiinaさんのJules Verne Pageの掲示板(現在は閉鎖)に、プルースト『失われた時を求めて』に何度かヴェルヌが登場することを紹介しました。今回は、ヴェルヌに直接関係するとはいえませんが、しかし、気になる個所です。保刈瑞穂先生の『プルースト 読書の喜び』を今更のように繙いておりましたら、最初の方に、『サント=ブーヴに反論する』のこんな一節が引用されているのが目に留まりました。

「われわれが行うことは生命の源に遡ることだ。現実の表面には、すぐに習慣と理知的な推論の氷が張ってしまうので、われわれは決して現実を見ることができない。だからそうした氷を全力で打ち砕くことだ。氷が張っていない海を再発見することだ」

保刈先生は、『サント=ブーヴに反論する』の十数年前に書かれた未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の序文の草稿でも、プルーストが「社交生活の氷を打ち砕く」と最初に書いてから別の表現に書き換えていることに注目し、それがマラルメの「白鳥のソネ」を思わせる表現であること、そして、『失われた時を求めて』最終編の草稿にやはり「重要なことはついに現実を認識すること、習慣の氷を打ち砕くこと、〔…〕氷の解けた海を再発見すること」という個所があることから、プルーストの息の長い一貫性に感嘆しておられます。保刈先生の注目はもっぱら「氷を打ち砕く」という創作行為のイメージに向けられていて、それは当然だと思いますが、ヴェルヌ愛読者としては、やはりどうしても「氷が張っていない海」「氷の解けた海」が気になってしまいます。後者の原文は、手元にプレイヤード版がないのでわかりませんが、前者は確かにla mer libre(=自由の海)、北極の不凍の海を指す言葉でした(この特殊な意味は、リトレには載っていますので、十九世紀後半においてはそれなりに一般的だったはず)。

プルーストには、思いがけないところで十九世紀文化におけるポピュラーなクリシェが鮮やかに転用されているところが特に比喩表現にあるように思われます。こんなことは僕のような素人が気づくくらいですから、すでに専門家にとっては自明なのでしょうが、たとえば、たとえほかの星に転生しても現在の五官のままであれば何の意味もないのであって、しかし、真の芸術家はまさに新しい感覚をわれわれにもたらし、星から星への転生を可能にする、という趣旨の有名な比喩を展開します。これは、明らかに、カミーユ・フラマリオンの輪廻観を比喩に転用しているのです。同じように、習慣という氷を打ち砕くという創造行為の果てに再発見される「自由の海」とは、十九世紀にいたるまでヨーロッパの多くの北極探検家を魅惑し、冒険に駆り立て、そして多くの犠牲を生んだ、極点周辺にあると言い伝えられてきた(伝説の)無氷の海から来ているわけです。もちろん、プルーストがこの言葉に出会ったのが『ハテラス』や『海底二万里』だったというつもりはありません。この言葉に触れる機会はほかにいくらでもあったでしょうから。ただ、この言葉に文学性をプルースト以前に(特に『海底二万里』において――ネモの「自由の海です!」というセリフ)付与していたのがヴェルヌであり、プルーストはその後でいわばこの語の最後の転生を成し遂げたのだ、ということはいっておきたい気がします。

犬の洞窟

前の投稿からずいぶん間が空いてしまいました。その間に合評会が終わり、そろそろ会誌の次号のことを考えなければならなくなりつつあります。久しぶりということでリハビリを兼ねて小ネタなど。

ある仕事(ヴェルヌ関係)に一区切りがついて軽い虚脱感に襲われ、そういう時に合いそうだなという予感で、山田稔訳のロジェ・グルニエをまとめ読みしました。案の定ぴったりで、とりわけ『六月の長い一日』「フラゴナールの婚約者」あたりが気に入ったのですが、「隣室の男」という短編を読んでいたら、「犬の洞窟」が出てきてはっとしました。『月を回って』『ベガンの五億フラン』に登場するので、当ブログ読者であれば、ご記憶にあるかもしれません。しかし、訳注を見てもっと驚きました。

「〈犬の洞窟〉はナポリ近くのアニャーノ湖畔にある。炭酸ガスがたまっているなかに犬を連れ込んで窒息させ、すぐに連れ出して生き返らせる見世物で有名」

なんという動物虐待、と今ならいわれること必定。しかし、さすがに今はやっていないでしょうねえ。犬の洞窟は検索にかけてもなかなかヒットしなかったのですが、アニャーノという地名が判明したことで、一件ヒットしました。

http://30932531.at.webry.info/201102/article_11.html

なるほど。しかし、現在はどうなのか。アニャーノは温泉で有名らしいので、どなたか行かれた方の報告がいずれ現れることを希望したいところです。

これはグルニエのほかの短編の訳注ですが、エドモン・アブーの小説『耳のちぎれた男』がおもしろそうでした。医者によってミイラ化されたナポレオン軍大佐が半世紀後に生き返る話だとか。アブーは今ではほぼ忘れられていますが、ヴェルヌと同じ年の生まれで、メリメの好敵手と目された作家です。グルニエは、読んでいてとにかくこういう細部がよくて、ぐっとくるんですね。

レオン・ベネット

Léon Benett illustrateur : lettres et dessins inédits(『挿絵画家レオン・ベネット――未刊行書簡とデッサン』)という本が先月フランスで出版されたので、取り寄せて一読しました。綺麗な本ですし、著者として子孫が四名も名を連ねていますし、貴重な書簡やデッサンが収録されているのは事実ですし、このような本が出ること自体が有難いのは大前提として、正直かなり飽き足りませんでした。『八十日間世界一周』のアウダ救出シーンに関するエッツェルの描き直し指示はなかなかおもしろく(パスパルトゥを大きく描きすぎで、これでは英雄になってしまう、彼は道化役なのだから、英雄的な活動をする時は遠くから描き、全体をサーカスにすべきである、など)、期待させましたが、いかんせん、書簡の選択基準がわからない。ヴェルヌに関する書簡だけでも、『マチアス・サンドルフ』関係の書簡はヴェルヌの書簡も含めて充実していますが(しかし、これはヴェルヌ研究者はすでに読んでいるものばかり)、ベネットは二十作以上に挿絵を描いているわけですが、そのうちの数作に関する書簡が数通あるいは一通ずつだけというのでは……。ベネットは専業の挿絵画家ではなく、官吏として植民地を中心にずいぶんと方々に転勤を繰り返し、実地にスケッチを蓄えていた人です。そういうある意味「異色」の経歴を浮かび上がらせるためにでしょう、上司の書簡などもかなり収録されていますが、まあベネット研究者(いるのか?)以外には興味を持てないですねえ。スケッチも説明がついていないものが多すぎますし、ちょっとこれだけではどうしろというのか、という本でした。

しかし、『マチアス・サンドルフ』に関するエッツェルとベネットのやり取りを知れたのはとても収穫でした。サンドルフの顔をどう挿絵で描くのか、三者の間で議論になっていたのは知っていました。エッツェルは、風景画家としてベネットを高く買っていたものの(その意味ではリューと同じ位置づけというか、後継だったのでしょう)、人物は似たようなタイプばかり描くという不満を持っていて、そのタイプというのは痩せた、角ばった顔なのですが、『緑の光線』の挿絵をご覧になった方はオリヴァー・シンクレアの顔を思い出していただければ大体わかります。それは実はベネットご本人に似たタイプの顔なのです。サンドルフもそうなったので、エッツェルはひどく気に入らず、もっと目を大きくしたヴェルヌの顔がいい、といい、挙句には自分の息子の顔にしろ、といっていたのですが、実際にヴェルヌに問い合わせたら、「あなた(つまりエッツェル)の三十五歳の時の顔」といわれたわけです。この「鏡の戯れ」は前からおもしろいなあと思っていて、ヴェルヌにいわば鏡を突き付けられたエッツェルはどういう顔をしたのだろう、具体的には、ベネットにはどう伝えたのだろう、と気になっていました(僕だったら恥ずかしくて自分の口からベネットにいえそうにない)。そしたらやっぱりエッツェルはヴェルヌのその手紙をそのままベネットに転送していたんですね、関連部分を書き写して送り返せ、といって。なるほどなあ、と思いました。とはいえ、その後、エッツェル三十五歳の肖像画の写真を受け取ったベネットが描いた顔も気に食わなくて、エッツェル本人が自分の若かりし頃の顔を細かく描写していて、これがなんともおかしい。さすがに本人も照れたのか、とってつけたように、ヴェルヌは主人公を自分自身に似せる傾向があって、実は自分たちは似ているのだ、と書いていて、これにもなるほどなあと思いました。そういわれればヴェルヌはエッツェルにそうでありたいけどそうはなれない自分を投影していて、しかし、エッツェルにはできないこと(小説を書くこと)を自分はできているのだ、という自負があって、そのバランスの上に成立していた関係なんでしょうね。とにかく、この互いを鏡に映しあう関係は大変興味深く思われました。

無用のこと

ヴェルヌ研の活動ではなく(笑)、書くことがないのでこのようなタイトルになった。

だから、今回は会員活動とは関係がない。会の活動としては、編集作業続行中というところである。

書くことがないなら書かなければいいのだが、やや間が空いたので埋め草をしたくなった。

ユクスキュルという人だったか、生き物それぞれに世界における有意味な要素は違うので、世界観? はそれぞれ全く違うと述べていたと思う。アフォーダンス理論とかいったろうか。

裏を返せば、意味のないものはその生物の世界からは抜け落ちている、と捉えられなくもない。(たぶんユクスキュル先生の言っていることとは違うだろうけど)

しかし、人間という生き物は無意味なものも自分の世界に含みこんで生きている。不要不急は自粛という風潮であるが、何が不要あるいは無用かは人それぞれで、他人から見ればどうでもいいことでも、当人には案外有用なのかも知れない。

無用、無意味と思えるものも、考え方によっては有用、有意味である、などといいたいのではなく、無用は無用でいいのであり、否定すべきものなどないのではないか。

これは極論かもしれない。多くの人が無用と思うものの中には、犯罪などの社会病理を誘発する恐れがあるから、というものもあるだろうから。

何が無用か、というのは案外重要で、複雑な問題である。

私にとって今一番無用と思えることは、フッサールの『論理学研究』を読むことなのだが、ではなぜ読む気になったか、というとちょっと説明しづらい。

そもそも、まだほとんど読んでいないのだが。

長いし、まだすべて訳されていないようなので、じっくり読むことにする。

ところで、みすず書房のホームページを見ていたら、「月刊みすず」に小沢信男が連載しているようだ。しかし、「月刊みすず」など図書館にも置いていない。

来月には「大人の本棚」シリーズから山田稔が出るようだ。エッセイか小説かは分からない。

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