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続・プルーストとヴェルヌ

どうもこちらのブログではつい重箱の隅をつつくようなことばかり書きたくなるようです。果たしてどの程度興味を持っていただける方がいるかどうか。

以前shiinaさんのJules Verne Pageの掲示板(現在は閉鎖)に、プルースト『失われた時を求めて』に何度かヴェルヌが登場することを紹介しました。今回は、ヴェルヌに直接関係するとはいえませんが、しかし、気になる個所です。保刈瑞穂先生の『プルースト 読書の喜び』を今更のように繙いておりましたら、最初の方に、『サント=ブーヴに反論する』のこんな一節が引用されているのが目に留まりました。

「われわれが行うことは生命の源に遡ることだ。現実の表面には、すぐに習慣と理知的な推論の氷が張ってしまうので、われわれは決して現実を見ることができない。だからそうした氷を全力で打ち砕くことだ。氷が張っていない海を再発見することだ」

保刈先生は、『サント=ブーヴに反論する』の十数年前に書かれた未完の小説『ジャン・サントゥイユ』の序文の草稿でも、プルーストが「社交生活の氷を打ち砕く」と最初に書いてから別の表現に書き換えていることに注目し、それがマラルメの「白鳥のソネ」を思わせる表現であること、そして、『失われた時を求めて』最終編の草稿にやはり「重要なことはついに現実を認識すること、習慣の氷を打ち砕くこと、〔…〕氷の解けた海を再発見すること」という個所があることから、プルーストの息の長い一貫性に感嘆しておられます。保刈先生の注目はもっぱら「氷を打ち砕く」という創作行為のイメージに向けられていて、それは当然だと思いますが、ヴェルヌ愛読者としては、やはりどうしても「氷が張っていない海」「氷の解けた海」が気になってしまいます。後者の原文は、手元にプレイヤード版がないのでわかりませんが、前者は確かにla mer libre(=自由の海)、北極の不凍の海を指す言葉でした(この特殊な意味は、リトレには載っていますので、十九世紀後半においてはそれなりに一般的だったはず)。

プルーストには、思いがけないところで十九世紀文化におけるポピュラーなクリシェが鮮やかに転用されているところが特に比喩表現にあるように思われます。こんなことは僕のような素人が気づくくらいですから、すでに専門家にとっては自明なのでしょうが、たとえば、たとえほかの星に転生しても現在の五官のままであれば何の意味もないのであって、しかし、真の芸術家はまさに新しい感覚をわれわれにもたらし、星から星への転生を可能にする、という趣旨の有名な比喩を展開します。これは、明らかに、カミーユ・フラマリオンの輪廻観を比喩に転用しているのです。同じように、習慣という氷を打ち砕くという創造行為の果てに再発見される「自由の海」とは、十九世紀にいたるまでヨーロッパの多くの北極探検家を魅惑し、冒険に駆り立て、そして多くの犠牲を生んだ、極点周辺にあると言い伝えられてきた(伝説の)無氷の海から来ているわけです。もちろん、プルーストがこの言葉に出会ったのが『ハテラス』や『海底二万里』だったというつもりはありません。この言葉に触れる機会はほかにいくらでもあったでしょうから。ただ、この言葉に文学性をプルースト以前に(特に『海底二万里』において――ネモの「自由の海です!」というセリフ)付与していたのがヴェルヌであり、プルーストはその後でいわばこの語の最後の転生を成し遂げたのだ、ということはいっておきたい気がします。

コメント一覧

sansin 2011年08月17日(水)15時24分 編集・削除

ゲルマント公爵夫人が社交シーズンに北欧旅行に行くのを、保守的な人々には『海底二万里』のように説明困難だが自立した魅力的な印象をもたらす、と言い表しているのは、ヴェルヌが「気球とかネモとか」と言っているのと同じような気がします。

吉川訳の第一巻の最初の方にウェルズ「タイム・マシン」への注記があって驚きましたが、ニーチェの初期草稿にも遊星上のはかない存在としての人類、それが真理と信じているものは神経刺激による錯覚、隠喩にすぎないという表現があって、人類の宇宙規模での相対化、という認識(の拡張?)は19世紀末には一般的だったのかも知れません。

プルーストのすごいところはそうした直近の感性や表現をも自らの作品にとりこもうとする貪欲さというべきでしょうか。すると当然ヴェルヌ的想像力や表現にも重なってくるということかも知れません。

『ティモシー・アーチャーの転生』か『ヴァリス』だったか、P・K・ディックが『失われた時を求めて』を学生のときに読んだが何の感慨もなかった、むなしい言葉だけだ、とか書いていたような覚えがあります。レムも読めなかったという挫折を告白していますし、私の好きなSF作家が二人ともプルーストがだめというのは悲しいことです。もう少し読み込んでみれば、と言いたくなりますね。

コンサートを電話で聞くサービスや、気送管郵便など最新技術にも目配りを利かせている『失われた時を求めて』ですが、なぜか(そのために鈴木訳「見出された時」を読みふけるはめになったりもしたのですが)、エッフェル塔が出てこないような気がしますが。どこかに言及されているのでしょうか。

ishibashi 2011年08月17日(水)21時38分 編集・削除

以下によれば、やはり『見出された時』に一回だけ出てくるようですね。ほんの言及にすぎませんが。

http://proust-ink.com/prouste.htm

宇宙規模の相対化、ということでは、壮大な例がやはりブランキの『天体による永遠』にありますね。早稲田文学に載せていただいた奥泉光論で奥泉作品そっちのけで論じたことがありますが、ニーチェに先駆けて永劫回帰思想が語られているものの、これが時間軸ではなく空間軸で、つまり宇宙全体で同時的に永劫回帰が進行しているんですね(要するに同一の地球が無限個存在している)。しかも、それが印刷の比喩で語られているところがミソで、これまたプルーストにも共通する側面です。しかし、ヴェルヌは編集に深くタッチしていた割には、考えてみると作品の中で印刷や編集はほとんど発想の核になっていませんね。『地球の中心への旅』の発端は一冊しかない写本ですし。……お、といっていたら、うえでハーディングさんがサクヌッセンム関連の話をしている。シンクロですね。

ishibashi 2011年08月18日(木)14時28分 編集・削除

業務連絡ですが、会誌第六号のスレッドを運営掲示板に立てました。暑いですが、読書会も視野にようやく動き出します。会員のみなさま、こぞってご寄稿を。そして運営掲示板で積極的に企画・編集にもご参加ください!

ishibashi 2011年08月27日(土)13時27分 編集・削除

『失われた時を求めて』の「花咲く乙女たちの陰に」にはスタール、すなわちエッツェルに関するかなり長い言及があります。そこで話題になる挿絵がこのほど私市先生のお陰で特定されました。今年終わりか、来年初めに出る岩波文庫の新訳で現物(フォルカー・デース氏提供のスキャン)を見られるようになるはずです。しかし、実はこの絵にはまだ謎が残っているんですよね。はたして解明されるか否か、その点も含めて岩波文庫版が出てからまたこちらで話題にしたいと思います。

おや、小野先生がこんなところに。

http://www.czechanimation.cz/?page_id=1392

未承認 2015年12月19日(土)17時55分 編集・削除

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未承認 2017年09月21日(木)07時24分 編集・削除

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