記事一覧

ある会員の活動 その6

世の中の雰囲気はすっかり変わってしまったが、東京の会社員の日常はそれほど変わらない。朝の電車が区間制限して乗り継ぎが面倒だったり(しかし、これも3月いっぱいで通常に復した)、残業しないよう(経費節減のため)指示されているくらいか。

3月20日に総会があったのは会長のご報告どおり。寒かったのもご報告どおり。しかし、会長のコメントは愚痴ですね、これ(笑)。

震災の影響ということではなく、春休みで大学の施設は設備点検していたようなのだ。借りる側も貸す側も気が付いていなかったようだし、借りたときにはもう少し暖かくなっているだろうという漠然とした考えがあったかもしれない。

しかし、3月下旬の関東は、毎年みんな勘違いしがちなのだが、今年に限らず案外まだ寒いのだ。

私がなぜか一番乗りで、カードキーを借りたり(この使い方もよくわからなかったのだが、細かいので省略)、設備点検の業者さんに丁重に出て行ってもらったりした(当然使用することは伝わっていなかった)。

その後の議事進行は略す。14時に始まり、17時半ごろであったか、終わった。

その後、いつも会合の後に行く居酒屋に行き、「あつかん」で体を温める。少々飲み過ぎ。

会誌第6号の特集テーマが早くも見えてくるなど、会則改定、役員変更以外にも実りある集まりだった。

ところでヴェルヌ研とは関係ない私事であるが、前会長である新島進さんの紹介により、SFマガジン5月号にスタニスワフ・レムについて寄稿した。草野球をしていたのが、急にプロのマウンドで投げさせられた感じだが、コントロールを気にせず直球勝負した。いい経験だった。新島さんに感謝。

興味をもたれた方はSFマガジンお買い求めください。雑誌・書籍の購入はヴェルヌ書店からどうぞ(笑)。

ある会員の活動 その5

うっかりして、2月中に出すはずの、総会の出欠はがきを出し忘れていた。

総会は3月20日である。日曜日なので、出席できる。

総会前に、美術展を観に行くイベント企画もあるのだが、こちらは所用あって行けない。

はがきとともに、会費の払い込みをする。今回から、来年の会誌代も会費に含まれる。

来年の会誌というのは、先日校正した第5号の、その次の第6号のことだ。

何においても、経営の根本は資金繰りである。前回総会で決まったのだが、ひとつの知恵であろう。

特集内容も全く未定であるが、作るぞ、という決意表明でもある。

第5号の代金も合わせて払い込む。読み返し用と、保存用の2冊を買うことにしている。

突然根本的なことを言うようだが、ヴェルヌという作家は実に味わい深い作家であると言えよう。

いざ論じようとすると、単純な幻想作家・冒険作家のイメージはけし飛び、多面的な相貌が現れる。

まだまだ、論じられるべきことは多い。

それに、ヴェルヌの全貌はまだまだ日本に紹介されていないということである。

一人で気張ってもしょうがないのだけれど、総会の前後には、今後の活動に思いをはせるのも、会員の務めであろうか。

ある会員の活動 その4

いろいろあって、ここに投稿するのは随分久しぶりになった。

前回、あれだけ言っていた校正はどうなったのかというと、実はとっくに終わっている。

他の寄稿者の方お二人の分と、自分の分2本をやった。

誤字脱字、「てにをは」などのケアレスミス、文意の不明点などをチェックし、訂正し、コメントする。

私の寄稿は、他の方がチェックしたものが廻ってきて、それを自分で再チェックする作業となる。

こうしてみると、なくて七癖、ではないが、人にはそれぞれ書き癖のようなものがある。よく使うフレーズ、というのもあるが、それ以外のくせもある。

たとえば私の場合、「・・・かもしれない」という表現をよく使う。

これを、「知れない」とよくまぜこぜにする。

文章上は、どちらかに統一することが求められるが、なんとなく、気分で使い分けてしまう。

最近は編集長に送る前に、検索して修正することを覚え、サルより毛が三本多いことを証明しようとやっきである。

それでも、ケアレスミスは人一倍多いようだ。orz

仕事帰りにタワーレコードまで行って桑田佳祐「MUSICMAN」の初回限定版がまだあったので買う。

明治通り沿いに駅の方へ行くと、駅の構内にかかった岡本太郎の「明日の神話」が割とよく見える。

そういえば、今日生誕100年らしい。

ある会員の活動 その3

1月30日(日)

年のせいにはしたくないが、夜更かしをすると後々まで生活のリズムが狂うので、昨夜は早めに寝てしまい、昼に録画でアジアカップの決勝を観る。

ニュースで結果は知っているのに、日本ゴール前にやすやすとオーストラリアボールが入ってくるとハラハラするのは不思議なことだ。

よく勝ったものである。

さて、原稿は校正刷に仕上がり、編集作業は校正の段階に入ったのだが、まだゲラ(校正刷)は来ない。

編集長がまずチェックし、分担で他の人のゲラをチェックし、最後に書いた本人がもう一度チェックする、という順で、編集長からこの人とこの人を、という依頼は受けているのだが、どうやら編集長のチェックに時間がかかっているようだ。

まず全部のゲラをチェックするのだから並大抵ではない。本業も忙しいのだろう。ゆっくり待つことにしよう。

ということで、今回の「ある会員の活動」は書くことがない。

・・・はずだったのだが、せっかく振られたので、1月27日付ishibashiさんの記事に応答を試みたい。こうした場所でのコミュニケーションも、会の活動の大事な一面だろう。

しかし、根本的な問題をさらっと振ってくるなあ。特別に何か緻密な理論を持っているわけでもないし、ここで分かりにくいことをくどくどと書いても仕方ないので、なるべく簡潔に書くように努めよう。

未来のことを過去形で書くという、「SFの原理的背理」なるものに関してであった。

日本語のもフランス語のも、文法には弱いのだが、おそらく基本的に、未来のことは仮定法でしか書けない。

だから、合理的には未来についての記述は全て仮定法でなければならない。

要するに「だろう話」であって、まず伝統的には小説と見なされない。未来予測、という範疇になる。すべて仮定法で書かれた小説、というのも多分どこかで書かれているとは思うが、それは実験小説である。

別の言い方をすると、仮定法は時制がない(?)ので、出来事を物語ることが難しい。

どこか一点を現在として、その現在が時間軸に沿って移動しなければ、すなわち何らかの形で「過去」がなければ、語りの視点は固定できない。さらに言うと、その現在を読者と共有する存在がなければ、読者がその小説世界に感情移入することも難しいだろう。

逆に言えば、語りとは小説世界に、語る過程としての「現在」を導入し、そこから過去と未来を仕分けることを基本的な役割として持っているのではなかろうか。

というわけで、未来小説は早くから、その未来の一時期を現在として語る視点を採用した。語り手がいる場合は、何らかの方法でその語り手を未来に運んで語らせる。ウィリアム・モリスでもそうなのである。

未来を現在として認識し、語ることは確かに背理だが、架空の時空間に感情移入すること自体が錯覚、いや、それこそ蓮實風に言えば「倒錯」というべきではないだろうか。

倒錯なくして感情移入はできない。サッカーの録画を、現在として楽しむように。

以上はリアリズム形式のSFについてであるが、スタニスワフ・レムのように評論風に語るSFでも、当然SF的アイディアを過去に起こった、あるいは証明された事実として語っている。

ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』の一章「ヌーヴェル三篇 あるいは『何が起きたのか?』」で、小説的時間について述べているが、確かにSFは「何が起きたのか?」という過去に対する問題が語りの中心となっている。未来について語ることは、多くは「何故そうなったのか?」という問いとして語られるからである。

『ロビュール』の場合、なぜロビュールなる人物がこのような行動をするのか?なぜアルバトロス号はこのような能力を持ちえたのか?という問いが語りを支えているのではないか、と思うのだが、これはあまり最後まで明らかにされないようだ。それこそ、未来へとロビュールが持ち去ってしまう、ということか。

少々長くなりすぎたのでこのくらいにしよう。ところで、たまたま書店で立ち読みした『ドゥルーズと千の文学』(せりか書房)は、ドゥルーズの数々の文学へのコメントからドゥルーズ哲学を読み解く、というものだが、当然ながらヴェルヌは出ていなかった。

ある会員の活動 その2

1月11日(火)

すっかり忘れていたのだが、会誌5号自由投稿のハードコピーを編集担当(shiina氏)に送らなければならなかった。

データでは送っているが、ハードコピーも校正上必要である。

今回から、ページ番号を打つよう指示が出ているので、フッターに設定して印刷する。

斜字太字、ルビ・傍線・傍点、注番号などにマーカーでマーキングをする。

それから、いわゆる環境依存文字にもマークする。

アクサンテギュとか、アクサンシルコンフレクスとか言われるアクセント記号など、ダイアクリティカルマークというらしいのだが、それ付きのアルファベットがフランス語にはある。

そもそも、わけもわからないくせに原文を引用したりするので、つづりがあっているかも自信がない。

今回の自由投稿はごく簡単に、軽く読めるものを目指したかった(あくまで本人の希望である)ので、注はつけなかった。

6枚の短いものなので、昼飯前にすませ、買い物のついでに投函する。

さて、いろいろと悩みはつきない。

(1)『海底二万里』映画化で監督を務めるという噂のある、デビッド・フィンチャー『ソーシャルネットワーク』を観に行くかどうか。

『セブン』の救われなさに、それ以降観たことがない監督である。『ベンジャミン・バトン』など評価は高いが、予告編を見ても暗い。

ただ、『セブン』、『ファイトクラブ』、『ベンジャミン ― 』などでブラッド・ピットを起用している。

もしかしたら、ネモなりネッドなりでブラピを起用するかも知れない。

ネモというとどうしても老成した印象があるが、ブラッド・ピットのような若いイメージのネモというのも新鮮かも知れない。

で、観に行くべきか、悩む。

(2)最近よく耳にするピエール・ルジャンドルを少し読んだのだが、ルジャンドルの専門である、中世ヨーロッパやローマ・カトリックの歴史についてまるで知らない。

いわゆるキリスト教リテラシー(笑)が、ない。

仕方なしに、平凡社ライブラリーから出ている聖人伝『黄金伝説』を読み始める。

これはこれで、ヨーロッパ文学の根っこであるから、読まなければいけない本なのであった。幸い、面白い。

(3)ヴェルヌとはまるで関係ないが、ふと日本史が気になっても、よくわからない。仕方なく、手ごろなところで司馬遼太郎『この国のかたち』など読み始める。

これはこれで面白いのだが、突然『老子』が引いてあると、また分からない。

まことに(これは司馬独特のクリシェ)、基礎教養がない。

若いころ何をやっていたのだろうか。

悩みはつきない。

せめて、ヴェルヌ研究にいつか役立てば、と思う。役に立つわけないか。

ページ移動