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ある会員の活動 その3

1月30日(日)

年のせいにはしたくないが、夜更かしをすると後々まで生活のリズムが狂うので、昨夜は早めに寝てしまい、昼に録画でアジアカップの決勝を観る。

ニュースで結果は知っているのに、日本ゴール前にやすやすとオーストラリアボールが入ってくるとハラハラするのは不思議なことだ。

よく勝ったものである。

さて、原稿は校正刷に仕上がり、編集作業は校正の段階に入ったのだが、まだゲラ(校正刷)は来ない。

編集長がまずチェックし、分担で他の人のゲラをチェックし、最後に書いた本人がもう一度チェックする、という順で、編集長からこの人とこの人を、という依頼は受けているのだが、どうやら編集長のチェックに時間がかかっているようだ。

まず全部のゲラをチェックするのだから並大抵ではない。本業も忙しいのだろう。ゆっくり待つことにしよう。

ということで、今回の「ある会員の活動」は書くことがない。

・・・はずだったのだが、せっかく振られたので、1月27日付ishibashiさんの記事に応答を試みたい。こうした場所でのコミュニケーションも、会の活動の大事な一面だろう。

しかし、根本的な問題をさらっと振ってくるなあ。特別に何か緻密な理論を持っているわけでもないし、ここで分かりにくいことをくどくどと書いても仕方ないので、なるべく簡潔に書くように努めよう。

未来のことを過去形で書くという、「SFの原理的背理」なるものに関してであった。

日本語のもフランス語のも、文法には弱いのだが、おそらく基本的に、未来のことは仮定法でしか書けない。

だから、合理的には未来についての記述は全て仮定法でなければならない。

要するに「だろう話」であって、まず伝統的には小説と見なされない。未来予測、という範疇になる。すべて仮定法で書かれた小説、というのも多分どこかで書かれているとは思うが、それは実験小説である。

別の言い方をすると、仮定法は時制がない(?)ので、出来事を物語ることが難しい。

どこか一点を現在として、その現在が時間軸に沿って移動しなければ、すなわち何らかの形で「過去」がなければ、語りの視点は固定できない。さらに言うと、その現在を読者と共有する存在がなければ、読者がその小説世界に感情移入することも難しいだろう。

逆に言えば、語りとは小説世界に、語る過程としての「現在」を導入し、そこから過去と未来を仕分けることを基本的な役割として持っているのではなかろうか。

というわけで、未来小説は早くから、その未来の一時期を現在として語る視点を採用した。語り手がいる場合は、何らかの方法でその語り手を未来に運んで語らせる。ウィリアム・モリスでもそうなのである。

未来を現在として認識し、語ることは確かに背理だが、架空の時空間に感情移入すること自体が錯覚、いや、それこそ蓮實風に言えば「倒錯」というべきではないだろうか。

倒錯なくして感情移入はできない。サッカーの録画を、現在として楽しむように。

以上はリアリズム形式のSFについてであるが、スタニスワフ・レムのように評論風に語るSFでも、当然SF的アイディアを過去に起こった、あるいは証明された事実として語っている。

ドゥルーズ=ガタリは『千のプラトー』の一章「ヌーヴェル三篇 あるいは『何が起きたのか?』」で、小説的時間について述べているが、確かにSFは「何が起きたのか?」という過去に対する問題が語りの中心となっている。未来について語ることは、多くは「何故そうなったのか?」という問いとして語られるからである。

『ロビュール』の場合、なぜロビュールなる人物がこのような行動をするのか?なぜアルバトロス号はこのような能力を持ちえたのか?という問いが語りを支えているのではないか、と思うのだが、これはあまり最後まで明らかにされないようだ。それこそ、未来へとロビュールが持ち去ってしまう、ということか。

少々長くなりすぎたのでこのくらいにしよう。ところで、たまたま書店で立ち読みした『ドゥルーズと千の文学』(せりか書房)は、ドゥルーズの数々の文学へのコメントからドゥルーズ哲学を読み解く、というものだが、当然ながらヴェルヌは出ていなかった。

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