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(新潮文庫)「海底二万里」

(新潮文庫)「海底二万里」(村松潔 訳)上下

 大型書店で見つけてさっそく購入しました。読もうかとした時、予想外の発見に嬉しさが込み上がってきました。それというのも、巻末に「注釈付き」正確には「註」が付いていたことでした。ここまでやってくれたヴェルヌ翻訳本っていえば、(ちくま文庫)「註釈 月世界旅行」ぐらいでしょうか。

 最初に気づいたのは、各章ごとに文頭のポイントを大きくしていることでした。これはよくペーパーバック(原書)に見られる特徴ですね。私が持っている原書といえば、ヘミングウェイの「老人と海」や「シャーロック・ホームズの冒険」それと、W・J・ミラー英訳「海底二万里」でしょうか。

 「註」と照らし合わせて、じっくり味わって読んでいて好奇心をそそられた項目がいくつかありましたのでいくつか取り上げてみました。

3章「旦那様のお気に召すままに」 P41 三人称でしか呼びかけようとせず

6章「全速力で」 P78 上げ舵
8章「動中の動」P123 台所に追い払われた
11章「ノーチラス号」P166 ジョルジュ・サンド

(この項目では、特に興味をそそられました。ishibashiさんが話題にされておられた同じ内容…サンドが「海底旅行」の企画をヴェルヌに提供…云々。翻訳本に入っていると、最新情報に凝ったな。ヴェルヌ研究会の会誌に目を通されたのかな、それとも独自調査だろうか?と推測したくなる。サンドの名を出したのも、「海底二万里」構想の謝意だとか)
 また、図書室の本とサロンの油絵の解説が豊かで好奇心をそそられる。
第15章では、水中銃の解説でオーストラリア人レニー・ブロックが発明した弾丸「ライデン瓶」では、ブロックなる人物は架空の人物。あの「地底旅行」のアルネ・サクヌッセンムと同様もっともらしく作った架空の人物だとか。これが面白かった。

新潮文庫版の注釈付き「海底二万里」がだんとつ最高の翻訳本です。

もっともっと書きたいことがあるけれども、やはりなんといっても帯についていた情報でしょうか。
 「デイヴィット・フィンチャー監督により映画化!」
 「リドリー・スコット監督、サム・ライミ監督によるプロジェクトも進行中との噂」

この2つの情報が気になり、ネットで検索しても最新情報がない。
怖いもの見たさで見てみたいですね。

夏の雑念

暑い日が続く。

せっかくなのでここでも拡散しておくと、トップページにもあるように、
8月25日(土)午後2時から、日本大学法学部で比較文学会東京支部の特別企画「明治期におけるジュール・ヴェルヌの移入」をやるとのこと。私市先生、新島さん、藤元さんの講義、必聴ものかと。一般聴講可だそうです。(行きたかった・・)

詳しくはこちら

だいたい1ヵ月に1回くらいの投稿間隔だったのだが、連投になってしまった。

このブログの、私の投稿を読んでいる少数の人々のうち、何人かはもしかすると、こいつ会員活動とやらはどうしたのだ、と思っているかもしれないのだが、投稿の内容が頭の中でまとまらないのだから仕方がない。

このままだと自由投稿まで手が回らないおそれが出てきた。どうするかな。

集中力が昔ほどないんだよなあー、などと歳のせいにしてみる。
しかし、最近気が散ることが多い。

(1)たまたま本屋でフィリップ・ロジェ『アメリカという敵』(法政大学出版局)を立ち読みしていたらヴェルヌが出てきた。
フランスの反米主義を歴史的に検証する、という本らしいのだが、なにしろ分厚くて立ち読みで分かる代物ではむろんないし、やたら高いので買う気にもならなかったのだが、ヴェルヌに数ページ割いていて、どうやらヴェルヌ作品における反米主義の徴候を検証している(?)らしいのだが、取り上げているのが『北部対南部』と、『封鎖潜水艦』(水声通信の訳題に従えば「封鎖やぶり」)の二つだけ。どちらも読んでないので(どちらも未訳だと思うが)何とも言えないのだが、ヴェルヌとアメリカ、といえば、ガンクラブ三部作、『神秘の島』、『八十日間世界一周』あたりにも触れないとやっぱり変ではなかろうか。ま、偉い人らしいけど。

(2)結局古本市に行って『ヴァージニア・ウルフ伝』とか分厚い本を買ってしまう。いかん。ウルフの評論集を読んでいたら、今度はジョージ・エリオットを読みたくなってきた。完全にいかん。

(以下さらに私的な興味ばかりなので読まなくてもいいです)

(3)来年の大河ドラマのヒロイン(綾瀬はるか演じる新島八重:同志社大学創設者・新島襄の妻)の夫役(つまり新島襄)がオダギリジョーに決まった。
実はあれこれ予測していたのだ。ヒロイン八重は戊辰戦争に従軍し、会津落城まで奮戦した後、京にのぼり女学校の教員になるが新島襄と出会い結婚。襄の死後、日清・日露戦争で日本初の篤志看護婦のリーダーをつとめ、晩年(昭和3年)皇族以外の女性で始めて叙勲されたそうな。つまり、結婚の前後が結構あって、襄役の拘束期間は案外短そうだったのである。
ということは大物をキャスティングできるのでは、と推測し、本木雅弘、竹之内豊、草なぎ剛(!)など候補を考えてみたのだが、はずれた。
まあ、脚本家の考える人物像に沿ってキャスティングするのだから、外から予測するのは難しいのだけど。

(4)大河のキャスティングといえば、『平清盛』に今度京本政樹が出てくるそうで、マスコミはてこ入れとか書き立てているが、京本も『ちりとてちん』に出演している、脚本家ゆかりの役者であるからサプライズはないのだ。むしろ神木隆之介とかの方がこれまで絡みがなかった分興味深いのだが。

(5)思い出のメロディーに荻野目洋子が出てきて倒れそうになる。懐メロかよ。しかし、同い年のはずだが、当時と変わらない歌と踊りを披露していたので感心してしまった。

で、気が散って集中できない。困ったものだ。いい歳してね。
こんな馬鹿なことばっかり言えるのも、平和だからなのだけれども。

夏の雑感

本を買っておいて読まない、いわゆる積読というのはまことにもったいないものだ。

読めばあっという間に読めるだろうから、そのうち、と思っていた『獣の奏者』の「探究編」「完結編」が文庫におちた。(職場から10分の古本市には行けなくとも、階下の書店には1分で行けるのである)

そもそも、文庫になるまで待てない、と買った単行本なのである。気が付けば3年の月日が過ぎ去っている。私にもあなたにも上橋菜穂子にも、3年という歳月は公平に流れていたはずだ。何のこっちゃ。

しかたなく、買う(買うのかよ)。「闘蛇編」「王獣編」はもともと文庫で持っているのだ。

こうなると単行本はただの場所ふさぎでしかない。未読のままブックオフか何かに売り飛ばす、ということになる。

アントニー・バークリー『試行錯誤』も、昨年思い切って古本で買ったにもかかわらず、読まないまま9月の創元推理文庫のフェアで復刊するらしい。どうせなら『ピカデリーの殺人』からにしてほしかった。これは古本で売れないから、復刊を買わない、という判断になる。

しかし、この復刊フェアのラインアップ、クロフツ『製材所の秘密』とかマニアックですなあ。まだフレンチが出てこない、初期の佳作であるこの作品、話の展開がその後『フレンチ警部とチェインの謎』で反復されてるのを読んでおや、と思った記憶がある。労働として(警察官だからね)探偵を行うフレンチはサラリーマンの鑑というべきキャラクターで、一時期凝ってほとんど読んだが、ずいぶん忘れてしまった。

『文学におけるマニエリスム』が出たので買う。この手の本は解説者が一人しかいないので、どの解説を読んでも似たような印象しか残らないのだが、なんだか今回もよくわからない。超人だか学魔だか知らんが、他にいないのか。まあ、解説に文句を言う前に、本文をちゃんと読んで、積読にしないようにするのが賢明であろう。ワイリー・サイファー『文学とテクノロジー』も同様である。

(ところで、この解説で『独身者の機械』も近々再刊と聞く、とか書かれてしまっているな・・確か随分前にも書かれていたような・・・大丈夫なのかしら)

「本棚の中の骸骨」の近刊情報を見ていると、ボルヘス『バベルの図書館 アメリカ編』とか、プイグ『リタ・ヘイワースの背信』とか、面白そうで高い本がいろいろあって恐ろしくなってくる。自制しなければ。あ、『ルパン最後の恋』ってポケミスなのか・・

ここ数日の間に出たらしい「群像」9月号に蓮實重彦の講演録が載っていて、ただちに買い求め、読んで驚愕。『「ボヴァリー夫人」論』、すでに脱稿して校正段階にあるという。来年には出版予定とか。しかし、話半分に聞いておいた方がいいか。蓮實が何らかの形で関わっている本は大概、出版までにおそろしく時間がかかる。

しかし、早く『ジョン・フォード論』も読みたいというのは、酷か。

講演録は積年のテーマが簡潔にまとめられていて、相変わらず大変面白かった。ラッセルを引き合いに出しているところがあって、ちょっとにやにやしてしまう。どうやら、それほど遠いところでうろうろしていたわけでもなさそうだ。

先週までは、何年かぶりに月末の土曜日に休めるかも知れないという可能性があって期待していたのだが、やはり駄目であった。比較文学会行きたかったのだが。

船について

『八十日間世界一周』については何度も読み、何度も書いているのですが、当然ながら、読み尽くした、書き尽くしたというには程遠く、作品の表層的な細部に限定してもいまだ隔靴掻痒の感が残るのは、最重要文献を未だに調査できていないからです。そのことを改めて感じさせられる発見が最近ありました。デパート古本市で雑書=ネタ本を漁るのが最近の「趣味」というか、仕事の一部なのですが、『八十日』に関する章があるというので特に期待もせず買ってきた中川浩一『観光の文化史』がなかなか拾い物でした。読み物的に緩いのが欠点でも長所でもあるような本で、著者は、鉄道関係では結構有名な人なんでしょうか。ホームズの『最後の事件』のスイスへの経路を時刻表片手に検証したりする章もあって、今ならもっと精緻でスマートな研究がありそうですが、素人にはこのくらいのもたもた感の方が親しみやすい。ライヘンバッハの滝の実地調査も、個人的にこの滝を訪れたことがある者には興味深いものがあります。で、肝心の『八十日』の章、まくらにあたる、著者本人としてはさして重要ではない部分に含まれる小ネタにはっとしました。ラングーン号とカーナティック号は実在の船だったというのです。いやはや、『海底二万里』冒頭に出てくる船がことごとく実在なのは気づいていましたが、これもそうだったとは。ヴェルヌの場合、登場人物以外の固有名は実在と疑った方がよさそうですね。特に船の場合、ほとんど歴史上の人物と同じ扱いになりやすい気がします。「イギリス国籍の定期船名辞典として、実用度の高いVernon Gibbs : British Passenger Liners of the Five Oceans, 1963を開いてみると、1800トンの姉妹船として就航したカルナティック、ラングーンの二隻は、ともに薄幸な存在であったと記されている。1862年に竣功したカルナティック号は、1869年9月、スエズ湾で荒天が災いとなって座礁し、全損に帰した由である」「ラングーン号の場合には、1862年に竣功したが、セイロン島南西端に位置するゴールを出港し、オーストラリアに向かう途中、港口に存在する暗礁にふれ、全損に帰していた。1871年11月の事件と、記録されている」。

つまり、両船ともにフォッグ氏世界一周時には存在していなかったわけです。こうしたことが生じた原因として、中川氏は、「事実設定のタネ本として『ブラッドショウ大陸旅行案内』の旧号を用いたにもかかわらず、年代だけは繰り下げたためであったろう」と推測されています。しかし、いかんせん船の事故がいずれも直前というのが気になります。わざわざすでに存在しない船にフォッグを乗せた可能性もないとはいえない。横浜描写(中川氏の章の眼目はこちらですが、すでにこの面では『ジュール・ヴェルヌが描いた横浜』の周到な調査がある今となっては、特にどうということはありません)と同様の資料の古さが原因の可能性は高いのですが、ヴェルヌが『ブラッドショウ』を使ったとして、それがどの号なのか、特定できなければなんともいえません。特定できればほかにも思いがけない発見はありそうなんですよねえ。以前shiinaさんがこの小説のなぞはすべてブラッドショウにあるような気がするとおっしゃっていましたが、確かにそんな気がします。1872年前後のブラッドショウが古本で出たら入手したいと思っているのですが、なかなかピンポイントで出ないし、結構高いんですよね。グーグル・ブックに入っている号もありますけど、年代的にぴったりとはいかないし、ページ数が多くて解像度が悪いと調べにくいこと夥しい。なんとかならないものでしょうか……

夏の雑談

よくもわるくも、昔ほど夜更かしができず、23時過ぎには眠くなってしまう。

しかも今の季節は暑いので、休日でも自然に7時頃には起きてしまう。一見健康的だが、たっぷり寝るにも若さがいるということだ。心境としては初老である。

したがって、オリンピックのいいところは大概翌日のニュースで観ることになる。もともと競泳とかにはあまり興味がないけれども、サッカーも体操も卓球もバドミントンも全然生で観ていない。
さすがに女子サッカーが決勝トーナメントになったので、やっと録画して今観ている始末。ブラジルもなぜ勝てないのだ、というくらいの個々の身体能力と攻撃力なのだが、それを封じ込めたなでしこの守備力とすばやく攻撃に移行する連携のすごさ。そしてやっぱり澤すげえな。

あとは、フランスやアメリカが使う、ロングパスで前線に放り込んで高速でゴールを狙う、中盤を「すっとばす」戦法にどう対応するか、なのだが・・

さて、ちょっと前にプレイヤード版ヴェルヌをゲット。そこまで指定しなかったのだが、二巻をセットで化粧箱に入れているヴァージョン。解説や注釈はよく分からないのでいつかじっくり読むことにする。

『この人を見よ』はヴェルヌ書店で予約していたので発売後ほどなく着。少しずつ読む。ちとネタバレになるが、後半中野重治が出てくる。なんだか最近中野の名をよく目にする。それだけ時代が巡った、ということなのか。ただ、講談社文芸文庫『斉藤茂吉ノート』の帯にある、「生誕120年」というのは明らかに間違い。まだ110年だ。

こういうあからさまな間違い、というのは単なる確認不足に過ぎない。ちょっと以前、誰だか忘れたが、『ガリヴァー旅行記』について、「誰でも知っているが、ガリヴァーが小人国で縛り付けられているところから始まる」と書いていた。『ガリヴァー』は、刊行者なるものの「刊行の辞」から始まり、ガリヴァーが簡単に生い立ちと出航の経緯を語るところから始まるのだ。難船して漂着した島で疲れて眠ってしまい、目覚めると縛られていたという次第。『ロビンソン・クルーソー』ほど前置きは長くないが、無視していい細部ではない。

ちょっと本棚をあたって確かめればすむ話なのだ。今月の「S−Fマガジン」のレムの著作リストも、『泰平ヨンの未来学会議』を「未来会議」にしていたり、『未来学会議』と『現場検証』を短編集に分類したりしている。まあ、確かに『未来学会議』は短編集に収録された中編なのだが、そんなこと言ったら『GOLEM ⅩⅣ』だってもともと短編の中編化である。

「泰平ヨン」シリーズは、短編が次第に複雑な長編に変貌して行くところが、レムの小説歴を考えるうえで非常に重要なのだが。

一人で文句を言いつつ、石橋氏がCyrus Harding42さんに勧めていたサイトをチェック。『文学におけるマニエリスム』、やっぱり買わないとだめか。

何と言っても、9月に河出文庫からフーコー『知の考古学』が新訳で出るのが驚異。現行訳は何度読んでも「言表」の定義付けが今ひとつ分からないので、新訳に期待。

国書刊行会のレム・コレクションは予定が未定らしい。そんなことだから間違えられるようになるのだ。

まあいいか。『八点鐘』を寝る前に一話ずつ読む。気楽な読書が一番。

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