『地球から月へ』第6章にこんな一節があります。
月が、地球のまわりを公転するときに通る線については、ケンブリッジ天文台があらゆる国の無知な人たちにもわかるように、ていねいに教えてくれた。この線は円ではなくて楕円の凹曲線で、地球がその中心になっている。
鈴木力衛訳(集英社)
地球をめぐって公転する間に月が動いていく軌道については、これが凹状の曲線を描いていることを、どんな国の蒙昧漢にでも分かるようにケンブリッジ天文台が説明していた。円軌道ではなくて、ふたつの焦点のひとつを地球とする楕円軌道なのである。
高山宏訳(ちくま文庫)
月が地球の周りを楕円を描いて公転しているのは周知の事実ですが、その軌道が「凹(状の)曲線」とはどういうことでしょうか。例えば「凹多角形」と言った場合、これは「凸多角形」の対義語で、180度より大きい角をもつ多角形を意味します。同様にして「凹曲線」と言った場合、どこか凹んだ箇所のある、例えば瓢箪の輪郭のような曲線ということになりますが、楕円はもちろんそのような曲線ではありません。
原文を見てみましょう。
Quant à la ligne suivie par la Lune dans sa révolution autour de la Terre, l'Observatoire de Cambridge avait suffisamment appris, même aux ignorants de tous les pays, que cette ligne est une courbe rentrante, non pas un cercle, mais bien une ellipse, dont la Terre occupe un des foyers.
原文では「courbe rentrante」と書かれていますね。「rentrant(e)」を辞書で引くと幾何学用語として「凹入する」とあり、成語として「angle rentrant: 優角、180度より大きい角」が載っています。だから「凹曲線」? いえいえ、ヴェルヌが楕円を指して「凹曲線」などと表現するはずはありません。こういうときに役立つのが19世紀の大辞典、リトレです。
Terme de géométrie. Courbe rentrante, courbe qui revient sur elle-même et se ferme. Le cercle, l'ellipse sont des courbes rentrantes.
これを読めば一目瞭然。「元の場所に戻ってきて閉じる曲線」、つまり「閉曲線」のことです。
そもそも「rentrant(e)」は「rentrer」の現在分詞ですが、この動詞には「再び入る、戻る」のほかに「くぼむ、食い込む」という意味があります。「angle rentrant」の場合には後者の意味で、「courbe rentrante」は前者の意味で用いられたということなのでしょう。英語でも「reentering angle」(もしくは「reentrant angle」)で「優角」の意味ですが、「reentering curve」で「閉曲線」の意味になるかどうかは不明。少なくとも現代では「closed curve」と言うのが普通でしょう。
ウェブ上で読める他言語訳をいくつか参照しましたが、はっきり「閉曲線」と読めるのはハンガリー語訳の「visszatérő görbe」のみ。手元にあるドイツ語訳(Fischer, 1997)も訳し落としていました。
ちなみに、地球が月の軌道の中で占める位置が「その中心」ではなく「ふたつの焦点のひとつ」であることは言うまでもありません。
ishibashi 2010年12月26日(日)12時10分 編集・削除
この小説、現在新訳を準備中ですが、手始めに私用に『月を回って』(kurouchiさんが製本作業中の本です)とセットで椎名さんに組んでいただき、自費で小冊子化した際に、この部分の誤訳をご指摘いただき、事なきを得ました。心強いです。