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ヴェルヌの半過去

白水社の雑誌「ふらんす」の連載「対訳で楽しむ『八十日間世界一周』」の最終回が只今校了。刊行は一ヶ月後なので一足先にこちらで後書き的なことを。

今回、フランス語初学者が読むテキストとしてヴェルヌのフランス語を見るという体験をして一番思ったのは、薄々感じていたことではあるのですが、ヴェルヌの半過去は厄介だな、ということです。この「厄介」というのは、用法として難しいという意味もありますが、それ以上に、文字通り「困ったものだ」ということです。物語の上で重要な個所を抜粋したのですが、ヴェルヌは必ず半過去を使っている。この半過去は、「過去における状態・持続」という教科書で最初に学ぶ用法ではなく、単純過去に置き換え可能な、臨場感を出すために用いられる半過去で、ヴェルヌは物語が盛り上がるとこれを濫用する。修辞疑問や感嘆符の多用とともに、これはヴェルヌの文体上の欠点で、これでは大衆作家の文体といわれても仕方がないですね。ただ、そう切り捨てられず、一筋縄ではいかない「厄介な」例があるからこそ、ヴェルヌは面白いわけです。そんなことを改めて思ったのは、たまたま「明學佛文論叢」の最新号(この紀要には、僕も『海底二万里』に関する論文を載せていただいたことがあります)に掲載された田原いずみ「語りの現在についての考察」に、まさに『八十日間』の半過去の用法が挙げられていたからです。半過去が連続して用いられ、「次々に行われた一連の動作を表しており、従ってそれぞれの半過去は過去のある時点に完了した出来事を示すと解釈され」、「問題なく単純過去と交換することができる」用法です。香港の阿片窟でフィックスに一服盛られたパスパルトゥがもうろうとした意識のまま、阿片窟をなんとか出て船に向かうシーン。

Mais trois heures plus tard, Passepartout, poursuivi jusque dans ses cauchemars par une idée fixe, se réveillait et luttait contre l'action stupéfiante du narcotique. La pensée du devoir non accompli secouait sa torpeur. Il quittait ce lit d'ivrognes, et trébuchant, s'appuyant aux murailles, tombant et se relevant, mais toujours et irrésistiblement poussé par une sorte d'instinct, il sortait de la tabagie, criant comme dans un rêve : « Le Carnatic ! le Carnatic ! »

だが、三時間後、パスパルトゥは、悪夢の中でも固定観念に追われ、目を覚ますと、睡眠薬の麻痺作用と戦った。まだ責務を果たしていないという考えが麻痺状態を揺さぶっていたのだ。彼は、酔っ払いたちの寝床を離れ、よろめきながら、壁につかまりながら、転んでは立ち上がりながら、それでも一種の本能に突き動かされるまま、喫煙室を出て、夢を見ているかのように叫んでいた。「カーナティック号! カーナティック号!」

田原氏は、このような「語りの半過去」は「発話者、語り手そして物語の登場人物とは異なる意識主体としての目撃者の視点を導入し、その目撃者の視点を通して物語世界の状況や出来事が説明されるため、読者は目の前で出来事が展開されているような印象を持つのである」と論じています。僕はまず一読、非常に面白い仮説だと思い、確かにここで引用される部分を読む限りでは、説得力を感じました。が、次の瞬間、「本当にそうかな」という違和感を覚えました。確かに、語り手とも登場人物とも関係ないいわば抽象的で純粋な、非人称的「目撃者」(映画のカメラみたいな?)を半過去が発生させるという考え方は魅力的です。しかし、そんな「視点」は具体的な物語の内部に存在できるのでしょうか? そうした「視点」を活用し得ている例が示されれば別ですが、どうもそれは作者の側で意識的に書かなければ起こらない現象のような気がしてきたわけです。念のために繰り返せば、そんなことはありえない、といっているわけではなく、ヴェルヌの例がそれにふさわしいかどうか、どうも怪しいという直観が働き、同時に、抜粋部分を見る限りで(つまり物語と切り離してみる限りで)議論に説得力を感じるとすれば、それはヴェルヌが大衆作家だという前提に基づいているからではないか、という気がしたのです(まあ、これは一種の被害妄想ですが、ヴェルヌ研究者をやっているとこういうことにどうも過敏になります)。大衆小説であれば、確かに映画的カメラアイがありそうな気がします。しかし、ヴェルヌのこの例はそうなのか?

そうではない、ともちろん僕は思います。この作品は叙述トリック的な性格が強くあり、匿名の語り手の役割がカギになります。この語り手は、第六章から第三十五章までの間、フォッグの固定観念の世界の中に住まっているにもかかわらず、しばしば指摘されるように、フォッグの内面には決してアクセスせず、パスパルトゥの視点に寄り添っています。したがって、パスパルトゥが視点人物になっているのですが、先の引用箇所もそれは当てはまると思います。事実、「固定観念」とか「考え」とか「一種の本能」といった一連の語彙は、パスパルトゥの内面にアクセスしなければ出てきません。ここでパスパルトゥの行動を描く視点は、「語り手とも登場人物とも関係ない目撃者」のそれではなく、パスパルトゥの視点でしょう。パスパルトゥの行動を彼の視点から描くというこの二重性は、まさしく睡眠薬が効いて半ば夢の中にいるパスパルトゥの状況に適合しています。彼は、これこれのことをしないといけないと思いつつ、体はいうことを聞かないという分裂状態にある。この先走る一方の意識が、いわば幽体離脱のような視点となって、パスパルトゥ自身を見ているのではないでしょうか。思うに、これは、物語が盛り上がると半過去を使うというヴェルヌの悪い癖がたまたま絶妙な表現を生み出した事例のような気がします。ヴェルヌが厄介なのは、凡百の大衆作家とは違い、こうした「たまたま」が起こることなのではないか。

半過去がカメラアイ的になる例が『八十日』にあるかといえば、ありそうでないな、という感じです。フォッグが一人きりになっている二ヵ所の二度目(リヴァプールの留置所)に「語りの半過去」の例がありますが、ここも例外的にフォッグが視点人物になっているという解釈で問題ないと思います。ヴェルヌの場合、視点人物がなんらかの形で特定されないケースは考えにくいかと。もっとも、これは考え方の相違かもしれず、田原氏は、「目撃者」を「物語世界の内部にいて出来事を目撃しつつ出来事の展開には介入することがない」存在と定義しており、これは、僕なら「語り手」に含めるからです。田原氏の定義だと「語り手」は登場人物の一人として特定されなければならないことになりますが、これが一般的な定義なのか、僕は不勉強でわかりません。いずれにせよ、物語内部にいて、ということは、物語の外部から俯瞰的に出来事を見ているのではない語り手は、大衆小説にはありふれていますし、ヘンリー・ジェイムズの視点の技法もこれに含まれるでしょう。とすれば、わざわざ半過去の特殊な用法によって局所的に出現する「目撃者」という概念が必要なのかどうか、僕には疑わしく思われます。また、自由間接話法について、「物語の登場人物の視点」から語られるとしている点も僕には違和感があります。自由間接話法のおもしろさは、それが語り手の視点だけから語られているのか、それとも登場人物の視点が入っているのか、その点が曖昧になることであって、語り手の視点から語られているという前提は動かないと僕は思っていたからですが、この点も一般的にはどういう議論になっているのか、識者のご意見を仰ぎたいところです。

ずいぶん長いエントリーになってしまいましたが、ともあれ、「語りの半過去」は、視点が切り替わる点に面白さがあると思います。僕がそうした面白さに目覚めた例を最後にご紹介したいと思います。ヴェルヌではなく、ルパンもの『八点鐘』の第一話冒頭。ヒロインが駆け落ちする車が狙撃された直後のシーンです。

— Crebleu de crebleu jura-t-il. Vous aviez raison… on tirait sur l’auto Ah ! elle est raide ! Nous voilà bloqués pour des heures ! Trois pneus à réparer ! … Mais que faites-vous donc, chère amie ?
À son tour, la jeune femme descendait de voiture. Elle courut vers lui, tout agitée.

「畜生」と彼は罵った。「おっしゃる通りだ……誰かが車を狙って撃ったんだ! ああ! なんてこった! タイヤを三つも直さなければならんとは!……おや、なにをするつもりなんです」
彼女もまた、車から降りるところだった。彼女はかっかしながら走ってきた。

「おや、なにをするつもりなんです」というところで読者の視点は、男の視点に同化させられ、目の前で彼女が車から降りてくるところを目撃するわけです。カメラが切り替わるような感覚を半過去が味わわせてくれるこういう例はたぶん珍しくはないんでしょうが、この一節を読んだ時に初めて気づいたので個人的に新鮮で、忘れがたく記憶に刻み込まれています。

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ishibashi 2012年07月25日(水)14時46分 編集・削除

「パスパルトゥの内面にアクセスしなければ出てこない」とまでいうのはいいすぎですかね。ただ、やはり物語の内容を(主要登場人物の内面も含め)ある程度知っていて初めて可能になる叙述ではあるので、ここでいきなり出てくる「目撃者」ではないでしょう。それに、「語り手」を登場人物の一人に限定しなければならないとすれば、三人称小説には語り手はいないことになってしまいます。近代小説では、一人称の話者はむしろ特殊な事例のような気がするんですが、これは「遠近法的倒錯」ですかねえ……。ジェイムズの匿名の話者なんて、語ることで事態に介入している気がしますし(量子力学的?)、ビュトールの『心変わり』の話者は完全に登場人物に強い影響を及ぼしているわけで、登場人物とはまったく別次元の「目撃者」は考えにくいのではないか……。

sansin 2012年07月25日(水)20時02分 編集・削除

フランス語できないので分からんのですよ。
鷲見洋一先生の『翻訳仏文法』(ちくま学芸文庫)は用例もルブランまであって多彩かつ豊富で、読んでいて楽しいので時々読んだりするわけですが、この本がどこまで正当的な文法の取り扱いをしているのかもよくわからない。鷲見先生は大学三年の時のゼミの先生で、愉快な方だった印象があるので、懐かしさも含めて読んでいる訳ですが。

で、それを読むしかないのですが、それを読んでも実は半過去というのはよくわからない。どうも、単純過去と対比しつつ、コンテクストを把握しなければ時間の経過や状況の継続といったニュアンスを読み取ることができないということ? なように読めるのですが。

さらに、「絵画的半過去(imparfait pittoresque)」というのを別に説明されていて、これは発話主体が「過去の出来事の現場に同化し、立ち会う」意味が強いということだそうです。(まさにここで『813』の引用があります)
石橋さんの議論のポイントは、じゃあこの発話主体ってどこからきた誰なのか、その「同化」を成立させてるのはそも何なのか、ということ?
 でしょうか・・・

いやあ、どうもこう書いてても根本的にわかってないんだろうなと思いつつしか書けませんね(笑)。失礼いたしました。
そもそもアスペクトとかジェロンディフとか分かってないと話にならないらしいし。
しかし、フランス文学で語りの問題、焦点の問題を考えるなら、半過去の問題は避けて通れないのだということは何となく分かりました。

ミシェル・フーコーが『地球から月へ』の語りを5段階に分類している例の有名なエッセイ(「物語の背後にあるもの」)をどう評価するか、というのが私にも喫緊の課題なのですが(無謀ですなあ)、そのためにももう少し半過去を勉強しなくては。

ところで『八点鐘』、遥か昔によんで細部は全て忘れており、衝動的に注文してしまいました。もはや偕成社の全集版しか読めない状況なのですね。

で、『ルパン最後の恋』は邦訳出版決定。

http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2500X_V20C12A7CR0000/

早川からなので、これを機に文庫も再会してほしいです。

ishibashi 2012年07月26日(木)21時19分 編集・削除

半過去は確かに難しいです。一年生を相手に四苦八苦しながら説明していますけど、中級文法書を参考にしていて、白水社の中級フランス語シリーズ三部作がとてもいいのですが、なかでも東郷雄二『あらわす文法』が半過去に関しては懇切な説明があってとてもわかりやすいですよ。最近の説明は半過去を「タイムマシン」に例えるんですよね。複合過去は、完了形ともいえますが、視点は現在から離れない。あくまで現在の視点から見るので、過去として完了していることが語られる。しかし、意識の上で現在と切れていないので、過去の行為の結果が現在に及ぶ場合にも使える。しかし、未完了形である半過去は、未完了といっても、それは過去の視点から見た時の「未完了=進行中」ということなので、現在には絶対に続いていない。現在とは切り離された、別世界としての過去に視点が飛ぶんです。つまり、回想モード。この「進行中」の幅が伸縮自在なので、実は一瞬でもいいんですね。この場合、まさに過去のその時点において目撃しているという感じが表現できる。半過去のこの目撃している主体は、基本的に発話主体=語り手だと思います。ですから、田原さんの「純粋目撃者」の仮説はとても興味深い新説なんですよ。ただ、僕の見るところ、これは今のところ理論的な仮説にとどまっていると思います。これを具体的な小説の用例から証明するのはそんなに簡単じゃありませんよ、とこれはまあ文学プロパーから語学専門家の嫌味だと思ってください(最近の蓮実さんほど高度ではありませんけど)。

ishibashi 2012年07月26日(木)21時21分 編集・削除

要は、半過去=過去における現在、視点は過去のその時点にあり、ということで大体説明はつきます。フランス語の場合、現在形の用法が英語より遥かに幅広いので、半過去の難しさは現在形の難しさでもあります。

ishibashi 2012年08月11日(土)20時57分 編集・削除

丹生谷貴志氏がtwitterでフーコーのヴェルヌ論に触れて一連の呟きを今日しているのに今気づきました(http://twitter.com/cbfn)。ここでの議論に関連するので以下にまとめておきます(流れて行ってしまうと見つけづらくなるので)。しかし、丹生谷氏、このところ後藤明生やビュトールについて連続でつぶやいたり、ちょっとドキッとしてしまいます(まさに自意識過剰)。

フーコーは短いジュール・ヴェルヌ論でヴェルヌのナラティヴの特性を細かく整理しているがそこに、「いるのにいない」登場人物の語りという特性を一つ見出している。例えば二人の人物が或る冒険をしているその様子をあたかもそこにいるのにいない三人目がいて、物語を語るといった感じである
その「三人目」はそこに臨席しつつ語る作者に似た距離を以て冒険を語るのだが、しかしあたかも作者とは別の、物語内の事件に内属しているかのような位置、一種の登場人物の位置において語る何ものかの語り=独語であるかのように、その語りは振る舞うのだ
例えばロブ・グリエの『嫉妬』の語りのような? それは一種のヴァリエーションかもしれないがそれとは違う。『嫉妬』の「いるのにいない語り手」は実は人称性が強く究極においてその者が事件を統括し支配している。しかしヴェルヌの「幻の三人目」は第三者的客観性或いは中性の形で語るのだ
繰り返すが「幻の第三者」は作者の位置にとても良く似ている。似ているがイコールではなく、厳密には一種の「登場人物」のような位置で語るのだ。まるで事件内を自由に飛び巡り、隣接し、離れ・・・そんな精霊めいた登場人物、最後まで誰とも指名されないまま語りとともに消える「誰か」のように?
この「幻の第三者」を映画におけるカメラ装置に似ている、と言い出せば性急過ぎよう。今少し考えること。
カメラのよおうに、と性急に言ってしまうと、かつて三浦雅史が写真について言った「幻のもう一人」と同じことになるかもしれない。あれはあれで鋭利な論考ではあったが、それとは違うのだ