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水声通信 no. 27(2008年11/12月号)特集:ジュール・ヴェルヌ

内容紹介

雑誌『ユリイカ』が1977年5月号でジュール・ヴェルヌ特集を組んで以来、実に約30年ぶりの本格的特集です。本来であれば、没後100年の2005年に刊行されていて然るべきものでしたが、諸般の事情から、生誕180年の2008年を待って実現の運びとなりました。

この30年の間に、フランスを中心とする欧米におけるヴェルヌ研究は一新したといっても過言ではありません。しかし、それらの情報は、ほとんど日本の一般読者の耳には入っておりませんでした。しかも、この30年とは、十九世紀のほかの重要な作家たち——バルザック、スタンダール、ユゴー、フロベール、ゾラ等々——の研究に対するヴェルヌ研究の遅れを取り戻すための30年でした。そのため、実は、フランス本国においても、ヴェルヌ研究は今ようやくスタートラインに立ったといえるのです。

このギャップを埋めるのは非常に難しいことです。つまり、多くの方々は、なぜ今頃ヴェルヌが注目されるのか、と唐突に思われるでしょう。ですが、実際には今になって急に関心が高まったわけではありません。地道に積み重ねられてきた成果がある程度まとまって入ってきたにすぎないのです。

『ユリイカ』のヴェルヌ特集の場合、フランスの雑誌『アルク』のヴェルヌ特集に錚々たる作家や批評家が寄稿した文章をそのまま翻訳したものがメインとなっていました。この編集方針は、まさに「なぜ今ヴェルヌを」という素朴な問いに答えるものでしたが、今回は不可能でした。ヴェルヌ研究は、地道な研究の集積になっているため、何人かの代表的な論文を選んで紹介すれば全体がカヴァーできるというようなものではなくなっているからです。

こうした状況を踏まえつつ、早稲田大学教授の芳川泰久氏の音頭の下、ヴェルヌ研究の動向に通じた研究会のメンバーが中心となって、特集のラインナップを決めていきました。まず基本的な情報を補うという意味で、ヴェルヌのあまり知られていない側面を代表する短編「フリッツ・フラック」の初訳、そしてヴェルヌのインタヴューの翻訳。次に、一般読者の方々の「なぜ今ヴェルヌを」という疑問に配慮して、ル・クレジオ(たまたま校了直後にノーベル文学賞の受賞が決まったのはタイムリーでした)によるエッセイ、ヴェルヌ作品をモチーフとした近作のある画家・横尾忠則氏のインタヴューを目玉に据えました。また、偕成社文庫のヴェルヌ作品の訳者である大友徳明先生から戴いたエッセイは、『ハテラス船長の航海と冒険』と並んでなぜか日本ではあまり知られていない『ミシェル・ストロゴフ(皇帝の密使)』を紹介したもので、ヴェルヌがごく単純な意味で再発見されるに値する作品をまだまだ書いている事実を納得していただけるでしょう。

それ以外の寄稿ですが、今回は、ヴェルヌの作品論ではなく、全体的な紹介に重点を置く雑誌特集の性格から、受容と伝記の二面が柱となりました。ヴェルヌの影響を取り上げる前者は、SFという観点から、私市保彦先生と島村山寝が、シュールレアリスムの先駆とも見做される特異な作家・詩人のレーモン・ルーセル、そして、フランス現代哲学のスターであるジル・ドゥルーズを通したヴェルヌ再読をそれぞれ新島進と堀千晶氏が、さらに、明治時代におけるヴェルヌ受容の一側面を藤元直樹が論じています。伝記的な側面については、ドイツのヴェルヌ研究家フォルカー・デース氏がヴェルヌの作家デビュー前後の新発見を、石橋正孝が編集者エッツェルとヴェルヌの関係に関わる最新の研究を紹介しました。

最後に、これからヴェルヌで卒論や修論を書こうと思っていらっしゃる学生の方々のために、《驚異の旅》書誌と、簡単なコメント付きのヴェルヌ主要研究書誌を付けました。

最大の心残りは、文学にこだわるあまり、サブカルチャーに対するヴェルヌの影響という視点が完全に欠落してしまった点です。ただ、これは紙幅の関係もありましたし、また別の機会を比較的容易に得ることもできるでしょうから、今回無理をしてまで入れる必要があったとは思っていません。テーマを絞ってヴェルヌを取り上げたのではなく、想定される読者の方々の多様性を最大限に配慮しようとした結果、特集全体の焦点がぼやけたのも確かです(そうしたご批判をネット上ですでにいただいています)。しかしながら、それぞれのご関心に応じて読んでいただくことで、「なぜ今ヴェルヌを」という問いに対する答えが、ぼんやりとではあれ、浮かび上がる構成になっているはずです。(石橋正孝)